2015年
復活の主日のお説教から 2015/04/19
<2015/04/05のミサから>
キリストの復活は、わたしたちの復活であり本当の永遠の命に生きることです。
なぜ、キリストがこれほど苦しまなければならなかったのでしょうか。
小さな悩み、大きな悩み、死に対してマリアやイエスのように
「なぜ?」と聞かないで心に受け入れて信じて神様に委ねるようにしましょう。
この態度が大切です。
イエスの受難と十字架の間、御父は天国からそれを眺めて赦していただけでしょうか。
全然違います。イエスと一緒に悩んで、内からイエスを支えておられたのです。
それは、イエスが言われたように「わたしは神の内にあり、神はわたしの内におられる」からです。
受難の主日(枝の主日)のお説教から 2015/04/19
<2015/03/29のミサから>
“父よ、わたしの霊を御手にゆだねます” (ルカ23:46)
≪十字架上の七つの言葉≫
- 父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。
- あなたは今日わたしと共に楽園にいる。
- 婦人よ、これがあなたの子です。見なさい。これがあなたの母です。
- 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
- 渇く。
- 成し遂げられた。
- 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。
マタイ福音者によるとキリストはその後、再び大声で叫びました。
この言葉のない叫び声には、悩む全人類の嘆きが含まれていると思います。
しかし、憎しみに満ちる声なのではなく、「成し遂げられた」、
つまり、わたしはすべきことをしました、「見捨てないでください」と。
「わたしを委ねます」という言葉の意味が含まれていたと思います。
悩む時のわたしたちもこのように悩みましょう。
四旬節第5主日のお説教から 2015/04/19
<2015/03/22のミサから>
“一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ” (ヨハネ12:24)
「洗礼を生きる」とは、
汚れたものを取り除く(清める)よりも、良心の正しい理解が与えられるよう
願い求めさせて下さることです。
洗礼は、愛と同じように方向性です。
四旬節第3主日のお説教から 2015/04/19
<2015/03/08のミサから>
“あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす” (ヨハネ2:17)
わたしたちには、教会に対する熱意がありますか。
それとも、教会のただのお客様ですか。
年間第6主日のお説教から2015/02/27
<2015/02/15のミサから>
四旬節とは…
心を清めてイエスと共にイエスのように、私たちの救いとなる『イエスの死と復活』を待ち望む期間です。
その精神は、『灰の水曜日』に行われる灰の式に受ける「回心して福音を信じなさい」と言うことです。
信じるとは、心で受け入れ行いで実現することです。
そのためには、非常に困っている人たちの近くにいること、そして、人が助かるために遣えることです。
マルコ福音(1:35)…年間第5主日のお説教から2015/02/12
<2015/02/08のミサから>
忙しいイエスの生活から『生きる余裕』を学びましょう。
イエスは、人のために生きる人でした。
そして、よく祈る人でした。
忙しいからこそ祈る必要性と喜びを感じていました。
機械的にではなく、心をこめて感謝しながら喜んで遣えることができるようになるためでした。
わたしたちも心にひと休みを与えて祈るようにしましょう。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
[マルコによる福音書 1章35節]
旧約の嫉妬深い神…年間第4主日のお説教から2015/02/09
<2015/02/01のミサから>
嫉妬は、ギリシア語で「ゼルス」と言います。
ゼルスには、2つの側面があり、1つは「ジェラシー」で独占欲、焼きもちの意味があります。
もう1つは「ジール」で相手の幸福を願い求める熱意です。
わたしたちに対する神の嫉妬は、この「ジール」です。
この神様の望みは、
「わたしから離れないで、幸せになりなさい。」と言うことです。
その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。
[申命記 18章20節]
マルコ福音(1:14~20)…年間第3主日のお説教から2015/01/29
<2015/01/25のミサから>
メインテーマは、「神の呼びかけに従う」です。
「イエス・キリストからの呼びかけ。」
「わたしについて来なさい。」
つまり、「わたしの教えについて来なさい。」と言わないで
「わたしについて来なさい。」と言っています。
これが、わたしたちの信仰の根本です。
要するに、日本語のローマ字で始まる4つの動詞を「
4S」とよびたい。
すなわち、キリストを「
知る」「
好きになる」「
従う」「
知らせる」がわたしたちの信仰です。
福音は喜ばしい便りです。
この福音を信じると言うことは、福音を心で受け入れて行いで実現することです。
ですから、今すぐにイエスについて行くようにしましょう。
そして「主よ、連れて行ってください。」と願いましょう。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
[マルコによる福音書 1章16~18節]
年間第2主日のお説教から2015/01/29
<2015/01/18のミサから>
メインテーマは、「神の呼びかけに従う」です。
「主よ、あなたのおっしゃりたいことをわたしに言わせてください。
あなたがなさりたいことをわたしにさせてください。
聖霊は、わたしが言うべきことを語ってくださいますように。」
と願いましょう。
一人ひとりに呼びかけてくださる神よ、世に遣わされたひとり子イエスは、生涯をかけて福音を告げ知らせてくださいました。
きょう救いのことばに心を開くすべての人が、いのちの道を見いだすことができますように。
集会祈願
「主の洗礼」の祝日のお説教から2015/01/29
<2015/01/11のミサから>
洗礼者聖ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼、キリストの洗礼は水と聖霊による洗礼です。
放蕩息子のたとえ話の場面をみると息子が我に返って反省し、家に戻って父親に謝る部分が「悔い改めの洗礼」に当てはまります。
父親が息子を許し、受け入れて抱擁する部分がキリストの洗礼を表しています。
「神を呼び求めよ。神が近くにいますうちに。」
遠ざかっていくイエスの後ろ姿を見るのは怖い。
「主よ、わたしを呼び求めてください。あなたの不在の痛みを感じさせてください。」
と願いましょう。
2014年
「聖家族の祝日」のお説教から2015/01/16
<2014/12/28のミサから>
3人はどのような家庭を築いたのでしょうか?
ヨセフは、神のことばを聴いてそれに従った。
マリアは、思い巡らして「おことばどおりになりますように」と主に委ねた。
イエスは、神の愛に包まれて知恵に満たされた。
この「知恵」とは、旧約聖書の「知恵の書」にあるように神の望みを知ることです。
つまり、3人の生き方は神に開かれた家庭、悩む人に開かれた家庭を築き、多くの人々の救いをいつも願っていた。
恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、愛ときずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。
集会祈願
待降節第4主日のお説教から2015/01/07
<2014/12/21のミサから>
聖母マリアの生き方は、「心が温まる、明るい温かさ」を感じさせます。
エリザベトを訪問し挨拶した時に胎内の子が喜び踊った場面からも、マリア様の存在そのものから感じる温かさは何故なのでしょうか?
マリア様が神様へされた3つの態度をわたしたちも学びましょう。
先ず一つには「信じる」、
天使から難しいことを告げられたのに聖霊に包まれてイエスに満たされました。
それで「お言葉どおりになりますように」と言って信じて委ねました。
だから、エリザベトに挨拶した時に胎内の子が喜び踊ったのです。
マリア様の「信じて、委ねて、感謝」できる生き方を願い求めましょう。
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。
お言葉どおり、この身に成りますように。」
[ルカによる福音書 1章26~38節]
待降節第3主日のお説教から2014/12/20
<2014/12/14のミサから>
待降節第3主日、Gaudete(ガウデーテ)は、四旬節第4主日のLaetare(レターレ)と共に「喜びの主日」と言われています。
待降節の4本のろうそくの1本はバラ色で、司祭の祭服もあわせてバラ色が用いられることがあります。
この喜びは、精神的な「ひと休み」の意味があり、もうすぐキリストが来られることを感じて、心を満たす喜び、心から湧き出る喜びに包まれて降誕祭を祈り待ち望むようにすすめられています。
そのためには、聖パウロの書簡(テサロニケの信徒への手紙一 5:16~19)に示されているとおり、
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんな時にも感謝しなさい。
聖霊の火を消さないように。
の精神を生きることが最も大切なことで、聖霊の火を消さないようにすれば、いつも喜んでいられます。
キリストの身分証明書は、周りの人々が救われることによって示されますが、クリスチャンであるわたしたちの身分証明書は、洗礼証明書を提示することではなく、「生き方」そのものによって示されるので、絶えず純粋な信仰を願い求めるようにしましょう。
「王であるキリストの主日」のお説教から2014/12/05
<2014/11/23のミサから>
マタイによる福音書25:31~46
Ⅰコリントの教会への手紙15:28
「神がすべてにおいてすべてとなられるためです」が、
キリストの生き方・考え方の基本となっている。
わたしたちがキリストを王にしなければならない。
そのためには、本日の「福音を守る」ことによって実現される。
つまり、あなたを必要としている人たちを助けたか助けなかったか?
…が「すべてにおいてすべてとなる」。
わたしたちの人生最後の審判の試験問題はただ一つ、
「すべき善い事をしたか、しなかったか」が問われている。
ルカ福音(19:1~10)…「聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂」のお説教から2014/11/28
<2014/11/18のミサから>
徴税人ザアカイの回心
…黙想に最適な箇所です。
- 黙想する時のやり方についてのヒント
聖書のことばに抱かれてキリストに注目し、神様と会話をする。
そして、「こんなイエスに私もなりたい」と願う。
イエスは人からの評判よりも人の救いを第一に願っていた。
徴税人ザアカイの家に自ら入って、救いを願ったように私たちも教会の外に出て人を集めなさい。
来るのを待っているのではなく自ら出て行きなさい。
心を清めるためには、分かち合いと施しが大切である。
ルカ福音(18:35~43)…「聖エリザベト」の記念日のお説教から2014/11/28
<2014/11/17のミサから>
「わたしを憐れんでください」
本当に大切なことは、目には見えないものである。
心の目に見える。
「主よ、目が見えるようになりたいのです」
身体の目が見えていても心の目が閉じていませんか?
本当に大切なものが見えていない。
人生の何が大切か?
「心の目が見えるようになりたいのです」
信仰に何が大切か?
ルカ福音(14:25~33)…11月5日ミサのお説教から2014/11/08
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、
これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
[ルカによる福音書 14章26節]
この聖書における「憎む」の意味は、「優先しない」と言うことです。
神のことばを心で受け入れ、行いで実現することを優先することです。
洗礼を受けるのは簡単ですが、弟子であることはむずかしい。
本当に信仰を生きる熱意があるか腰をすえて、そのむずかしさを覚悟して考えるのがよい。
自分の十字架を背負うことに関して、試練の時、つらい時、
歩きたくない道を歩かなければならない時には忍耐と信頼感。
日常生活の小さな十字架、仕事や人間関係の場合、
しなければならないことに関しては、心を込めて感謝しながら喜んでするのです。
キリストの真の弟子になることを絶えず願い求めましょう!
「死者の日」のお説教から2014/11/06
<2014/11/02のミサから>
「死者の日」の意味とは…
「亡くなられた方々のために神様よろしくお願いします。
その方々と出会わせてくださって有難う。
私たちのために祈り続けてください。」と祈る日です。
大切な方の存在は、不在で痛みを感じます。
よい死を迎えられるためには…
人生は神様へのプレゼントを作るための荷造り期間です。
神様が望まれるプレゼントとは、神様からいただいた種を実らせ、自分を必要としている人、困っている人のためにした愛の行いが最も喜ばれ、神様にとってその人の人生の評価基準となります。
自分が人を助けるよりも人が助かることです。
最後に2つの祈りをお薦めします。
主よ、私が蒔いたあなたの種を実らせてください。
愛(いと)おしい亡くなられた方々が私の心に蒔いてくださったあなたの種を実らせてください。
父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
[ヨハネによる福音書 6章37~40節]
「キリストの聖体の祝日」のお説教から2014/07/09
<2014/06/22のミサから>
聖体を拝領することは秘跡、しかしミサに与ることは任務を果たすことで秘跡ではない。
その背景には、「契約」があり、「アブラハムの契約」は、動物のいけにえと割礼、「モーセの契約」は、安息日、「キリストの契約」は、キリスト自身のいけにえ、つまり、「新しい永遠の契約の血」、その記念としてミサがある。
「聖体」は、キリスト自身が苦しみながら作ってくださった「食べ物」として、「永遠の命の糧」を感じさせてくださる。
そのため、わたしたちはその契約に対して決心と感謝をもって、キリストの言葉を心で受け入れ、行いで実行出来るように願う。
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
[ヨハネによる福音書 6章151節]
「聖霊降臨の祝日」のお説教から2014/07/09
<2014/06/08のミサから>
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
[ヨハネによる福音書 20章19~23節]
聖霊降臨の主日は、復活節50日間の最後の日曜日です。
「ペンテコステ」(五旬祭)と呼ばれており、「50番目(の日)」という意味があります。
「聖霊を受けなさい。」
全世界のすべての言葉でキリストの言葉が宣べ伝えられ、聖霊はすでに来ていて、聖霊は真理を求めさせてくださる。
「火(炎)」の形とは…
- 「光」:道の光となる
- 「温める」:正義の中から心の温かさを表してくださる。
- 「熱心」「元気」「熱意」「情熱」を表してくださる。
キリストのようにキリストと共に生きるため、門を開いて外に出る勇気を与えてくださる。
「主よ、私になさりたいことを私にさせてください。
主よ、私におっしゃりたいことを私に言わせてください。」
そのために「聖霊よ来てください。」と祈りましょう。
「主の昇天の祝日」のお説教から2014/07/09
<2014/06/01のミサから>
「昇天」の意味は
イエス・キリストが御父にお帰り(還る)になったことを表している。
「雲に覆われて…」
雲は、目に見えない神様の姿であって身近に救ってくださることのシンボルとして表現されている。
ミサの最後に派遣の言葉として「行きましょう。主の平和のうち」と司祭が唱える意味は、教皇フランシスコが常々お話しされているように「教会の門の外へ出て福音宣教に行きなさい。」と言うことです。
私たちは教会から出てきたことを忘れないで、世の終わりまでいつもそばにいてくださる主に信頼と希望をもって、社会に家庭に福音を宣べ伝えことができるよう「主よ、私たちの信仰を強めてください!」と祈りましょう。
主の昇天
復活後40日目に、主の昇天を祝います。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
[マタイによる福音書 28章16~20節]
2013年
七つのパンと少しの魚で人々を癒されるキリストの話から “互いに癒し合う”…2013/11/28
<12月4日のミサから>
悩んでいる人のそばにいて癒してくださるキリストと共に生きるよう求めましょう。
わたしたちの力は小さいものですが、
キリストを通して祈って頂くことで、
七つのパンと少しの魚を祝福し、賛美と感謝を捧げて人々を満腹にして癒してをくださる。
喜びも悲しみも分かち合って互いに癒し合う。
イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
[マタイによる福音書 15章29~37節]
やもめの献金のお話から “施しの程度について”…2013/11/28
<11月25日のミサから>
4つの程度があります。
- 有り余るお金を誰にも施さず、更に大きな倉に財産を入れて将来に備えようとするやり方
- 有り余る中から何かをあげるやり方
- 財産の半分を施す徴税人ザアカイのやり方
- 乏しい中から生活費の全部を施すやもめの献金のやり方
お金に限らず時間についても人のために使う姿勢が大切です。
心をこめて感謝しながら喜んで遣える寛大な心を願いましょう!
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
[ルカによる福音書 21章1~4節]
「主イエズスよ、来てください!」の意味は…2013/11/28
<11月15日のミサから>
「今、私の人生に来てください。」と「人生最後の時、迎えに来てください。」の2つの意味を含んでいます。
キリストがその人の人生の評価をする基準は、マタイ25章にある、飢えている人に対して、喉が渇いている人に対して…どのように接したかが判断の基準となります。
主が来てくださる生き方が実現できますように願いましょう。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
[マタイによる福音書 25章35~40節]
感謝することを忘れないように2013/11/16
<11月13日のミサから>
感謝されることをあまり期待しないで、感謝することを忘れないように。
感謝に満ちた信仰を願い求めましょう!
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
[テサロニケの信徒への手紙一 5章18節]
神を賛美するために戻ってきた外国人2013/10/13
<福音朗読から>
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
[ルカによる福音書 17章11~19節]
- 感謝すれば喜んで生きられる。感謝によって深い喜びを持つことができる。
- 感謝をしたので体と心が清められ、感謝する人は救われた。
- 器の表はきれいにするが、ほどこしと感謝で内側も清める。
わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た2013/10
<聖書研究会から>
私たちは人の悪いところを見つけると、その人の人格と結びつけ、その人を決めつけてしまう。
しかし、イエスが望むことは、相手も救われることである。
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
[ヨハネによる福音書 12章44~50節]
感謝の気持ち・謙虚な気持ち2013/07
感謝の気持ちは、謙虚な気持ちを深めます。
謙虚な気持ちは、忍耐を強めます。
初心を求めるベクトル2013/07
人生は、常に、今という時点から始まるベクトルです。
オーケストラのように2013/06
<聖書研究会から>
それぞれ違った意見がありながら調和がある。私たちはオーケストラのようになろう。
演奏者一人ひとりは違う楽器、違う音色を奏でながらも、全体で1つのハーモニーを奏でる。
同じメロディーの100台のピアノになるのではない。
一同が一つになって集まっていると、……炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
[使徒言行録 2章1~11節]