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追悼特集

ブラザー・エルナンデスへ

R.I.P. Br. Manuel Hernández Montesinos, SJ.

カトリック麹町聖イグナチオ教会にて執り行われた葬儀ミサの説教(2019.12.4)

(葬儀の時には、説教が文書になっていませんでしたので、ここにその説教内容を思い出しながらこの文書を書きましたが、雰囲気は違います。 J.Garralda)

ブラザー・エルナンデス(Br. Manuel Hernández Montesinos, SJ.)

「神の国は何に似ているか、何に例えようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと成長して木になり、その枝には空の鳥が巣をつくる。」(ルカ13:18~19)

11月28日、イエズス会上石神井修道院にて、Manuel Hernández Montesinosは、心不全のため、静かに息を引き取りました。88歳の生涯でした。

小さな「からし種」であった彼は、成長して「木」になり、「空の鳥」である悩む人、つまり、わたしたちはその枝に巣をつくったり、ひと休みしたりしていました。

昨日のお通夜も今日の告別式もこの大きな主聖堂をいっぱいにしているわたしたちです。

さすが、エルナンデスさんです!学歴も肩書きもそれほどなかったのに彼のためにこんなに沢山の人が集まりました。心の実力です。心のある人でした。

今頃、天国は賑やかになったことでしょう。きっと、彼は聖ペトロの肩をバシバシ叩いて、「ペトロ殿、元気か?」と言っているのではないかと想像できます。

今の天国は大変。

ところが、この世のわたしたちは寂しい。お通夜の説教でアルティリオ神父様が引用したスペインの歌は、わたしたちの悲しみを表しています。

『友達が離れる時、魂の中では何かが壊れる。』

最も悲しんでいるのは、たぶん99歳のブラザーマルコでしょう。非常によい友達でした。

二人で散歩をするのが大好きでした。途中で喧嘩をして別々に帰ってくることもありました。サラゴサ出身の人は頑固だと言われていますが、エルナンデスさんはまさにサラゴサ出身でした。

しかし、エルナンデスさんの生の声は、もう聴くことができなくなりました。

信じられないですね。

「声」と言えば、このようなことがありました。彼が亡くなる二日前に教皇フランシスコはご自分のイエズス会の家(SJハウス)を訪問され、兄弟会員と共にごミサを捧げられ、朝食を共にされました。 私が自分のお皿を取ろうとした時、誰かが私の背中を押し掛けて、「どけよ!」と言う声がしました。 振り向くとやはり彼でした。よく言えば「元気でよかった」のですが、悪く言えば「相変わらずなおりませんね!」と思いました。 しかし、実は、その言葉は、彼から聞いた最後の声、貴重な言葉でした。「どけよ!」

ブラザー・エルナンデス(Br. Manuel Hernández Montesinos, SJ.)

ところで、彼の名前Manuelのニックネームは、「Manolo(マノロ)」です。

11月15日の出来事ですが、毎週金曜日の7:30から朝祷会が開催されており、その日はゲストスピーカーとしてBr.エルナンデスがこのような話をしました。

『死がいつ来るのか、わたしたちにはわかりません。準備していなければなりません。 人に深い喜びを感じさせると言う準備をするのです。 私は若い時に楽しく遊んでいたプレイボーイでした。 しかし、ある日、目の不自由な叔母さんを見掛けたので、彼女の手を取って道案内をしました。 その彼女は、私が手にしていた母の作ってくれたチョリソ(サラミみたい)のサンドイッチの臭いを感じて、「美味しそうなものを持っていますね」と言ったのです。 私は「お腹が空いていますか?あげますよ!」と言ってそのサンドイッチを渡したのです。 その時の彼女の大変嬉しそうな表情をみて、私も本当に嬉しくなりました。 あの時、私が感じた喜びは、遊んでいた時の楽しさとは違う喜びを味わったのです。 その喜びは、これからずっと、困っている人に深い喜びを感じさせることが私の人生の道だと教えてくれました。 そのためにイエズス会に入会しました、司祭になるためではなく、皆に役立つ仕事をするブラザーになるためでした、30年間に渡って大工仕事をしていたイエスのように…。』

つまり、喜びの質は、彼の生きる根本方針を照らしたわけです。

来日して以来、台所や暖房係のような仕事をしながら20年間を過ごしました。

司祭になる神学生のためには、2年間の日本語学校で学ぶ機会がありましたが、ブラザーのマノロにはそのような機会がなかったため、仕事の合間の休み時間を使って自力で日本語を覚えたのです。偉い!!

あの当時、主任司祭であったカンガス神父様に呼ばれて、イグナチオ教会に来ました。

その後、34年間にわたって、香部屋の仕事、葬儀や結婚式の手伝い、ロザリオや十字架の道行の祈りなどを行い、そして、自分の部屋にひっきりなしに来る人たちと共にいる仕事を続けてきたのです。

また、毎朝、4時半に起床して、教会の門や全ての扉の鍵を開けていました。雨にも負けず、雪にも負けず。

朝ミサの時には、長年、侍者と朗読者の役目を果たして、立派な日本語で聖書の箇所を読んでいました。 実は、難しい日本語は勝手に読み替えて、自分なりの内容で語ることもありました。 そのような時、ミサに与っている会衆者は、パウロの言葉を聞いているのかマノロの言葉を聞いているのかは微妙なところでした。

マノロは本も書きました。

「エルナンデスさんの本」そして、「信、望、愛。60年日本で生きて」の二冊です。

エルナンデスさんは立派な人格者です。

正しいことを言うまじめな聖職者よりも、良いことをする面白い聖職者でした。

これを皆が学ぶように努めれば良いと思う。正しいことを言うまじめな人はたくさんいます。

まに合っています。良いことをする面白い人は、ありがたい存在です。

教皇フランシスコは、「教会外に出なさい。羊の臭いのついた羊飼いになりなさい。」と勧めています。

マノロは、45年前からずっと外の刑務所に出向いていましたし、教会の外の人もたくさん彼のところに来ていました。

刑務所の教誨師として「瑞宝小綬章」も授与されました。

すべての宗教の教誨師の方々からも好かれていました。

昨晩も今日も刑務所関係者や教誨師の方々が多く弔問に来ていらして彼の死を悼みました。囚人たちも来たかったのですが、事情がございまして…。

エルナンデスさんは、教誨師の私に時々、次のことを尋ねていました。

「刑務所にミサはありますね。囚人たちはミサが好きだし、役に立っているから続けてくださいね。」と。

つまり、自分の教誨師としての働きよりも囚人たちを大切にしていました。

中心は自分ではなく、囚人たちの成長でした。これは難しいことです。

純粋な愛が求めるのは、私が人を助けることよりも人が助かることです。

エルナンデスさんは純粋な人でした。

恐れを知らないマノロはすべてを超える人間でした。

人の身分と財産と肩書きを超えていました。世の中の偉い方を受け入れていましたし、弱い立場に置かれている方も平等に受け入れていました。

有名な作曲家で指揮者であった山本直純氏は、エルナンデスさんの導きで洗礼を受けられました。

非常に貧しい方々をも同じ温かさで受け入れていました。

まさにイエス・キリスト自身がなさっていた通りです。

マノロは、時間と空間を超える人間でした。

いつかこのように話してくれました。 「大変だったよ!〇〇さんに言うべきことを言っちゃった。 彼は怒ったけれどもはっきりと言ったよ。」すごい喧嘩が起こったのかと心配になった私が「それは昨日でしたか?」と聞くと彼は「違うよ、六年前だった。」と答えました。

時間を超える人間でした。

マノロは、善と悪を超える人間でした。

彼の運転は激しかったのです。明らかにしてはいけない危ないことを平気でしたのに「ピィ、ピィ!!」とタクシーに怒られた時も落ち着いて、隣りにいた私に「あの運転手は神経質だね!」とコメントしました。

また、ちょっと危ない男性が主聖堂で悪い事をしていた時、マノロは、その人の両腕をつかんで、肩を揺さぶり、「出て行って!」と大声で叫びました。

たまたまその場面を遠くから目撃していた私が後で「あれは何だったの?」と聞いてみたところ、マノロは、「〇〇さん、ここに居ない方がいいですよ!」と優しく勧めたのですと説明してくれました。

「優しく???」

善と悪を超える人間でした。

マノロは、面白くておっちょこちょいな人でした。

教誨師の国際大会がスペインで開催された時のことです。

マノロは、自分の話が終わってから、他の日本人の教誨師の話を日本語からスペイン語に通訳をすることになっていました。

ところが、マノロは真剣にその話を日本語から日本語に通訳し始めたのです。

「Manolo,por favor!!!」と言う声を聴いて、初めて気が付き、「そうか、そうか」と言って大笑いしました。

また、日本に来日して間もなくの頃に軽い病気で入院していました。

カトリックの看護師さんは彼のベットに近寄って「私はエルナンデスさんが好きです。」と告白したのです。

マノロは、早速「何を言っている!膝撤づいてロザリオを唱えなさい!」と命令しました。

暫く経ってから「もう帰ってよい。」と言い、ささやかなロマンスは速やかに終了となりました。

良いことをする面白い聖職者でした。

『友達が離れる時、魂の中では何かが壊れる。』

彼は、今こそ幸せ、また会えるのです。

全く違った様子と状態で、まさしく同じ人間が生きるとイエスは教えてくださいました。

想像することができない状態では、まさしく同じマノロは、今こそ幸せです。

ちびっこの天使たちに飴を配っていることでしょう。

そうしている彼にまた会えるのです。

神様、この素晴らしい人に会わせてくださって有難う。

エルナンデスさん、一緒に居て、友達になってくださって有難う。

もう一つの「有難う」があります。マノロの人生の総括的評価になる一言です。

彼が死んだ時、迎え入れてくださったイエスの一言です。

マノロのすべてになっていたイエス・キリストからの一言です。

「マノロ、有難う!」これです。

追悼 親愛なる兄 ハイメ・ガラルダ神父へささげる

R.I.P. P.Jaime Garralda, sj.

ハビエル・ガラルダ神父様の最愛のお兄様であるハイメ・ガラルダ神父様が、2018年6月30日14:30にマドリッドにあるイエズス会修道院(Alcala de Henares)にて96年のご生涯を全うされ、帰天されました。

72年間の修道生活、61年間の司祭職のご生涯でした。

7月4日にマドリッドの教会(San Francisco de Borja)にてご葬儀が執り行われました。

慎んでハイメ・ガラルダ神父様の永遠の安息をお祈りいたしますと共に、ハビエル・ガラルダ神父様が天国のお兄様へ宛てられた追悼文をご紹介いたします。

ハイメ・カスタニエダ神父(1931年6月27日~2017年1月22日)

司祭も高齢化社会を迎え、生涯をキリストの司祭職に身を捧げ、日本での宣教の使命を全うされた司祭方が帰天され、ガラルダ神父様が同期生のJaime Fernandez Castaneda神父様の通夜式にその死を偲んで送られた言葉をご紹介いたします。

カスタニエダ神父様は、ガラルダ神父様と時を同じくして同郷に生まれ、イエズス会に入会し来日してからも共に司祭の道を歩まれ、当時の住まいSJハウスでも寝食を共にした最愛の兄弟であったカスタニエダ神父様の帰天は残念で寂しいことと思います。

ガラルダ神父様はしばしばロヨラ・ハウスで療養されている司祭方を見舞い、励ましとお祈りを捧げて帰天された司祭への感謝の思いを綴られております。

ハイメ・カスタニエダ神父(Jaime Fernandez Castaneda神父)

ガラルダ神父様からハイメ・カスタニエダ神父様へ送るメッセージ

2017年1月22日、午後10時5分、Jaime Fernandez Castanedaは、ロヨラハウスで静かに息を引き取りました。85歳の生涯でした。

記憶力と健康が次第に弱くなっていたので、「元気?」と聞けば、ちょっと寂しく微笑んで、「まあ、待っている」と応えていました。

もうイエスが迎えに来ていただいた彼は、完全に嬉しいでしょう。しかし、残された私たちは嬉しくありません。大切な人の大切さは不在の時に感じられるからです。

1931年6月27日、マドリッドに生まれました。お父さんは軍隊の将軍でしたが温かい厳しさのある明るい人でした。一人の弟はイエズス会の司祭でしたし、一人の妹はオプス・ディのシスターです。

マドリッドの「アレネロス」というイエズス会の中高のCLCで聖母マリアにはまりまして、17歳のハイメ少年は、1948年9月14日にアランフェスでイエズス会に入りました。

哲学はマドリッドとアルカラで学び、ウェストンカレッジの哲学院で6ヶ月間にわたって英語を勉強してから、サンフランシスコで小さな貨物船に乗って、5人の若いイエズス会員と共に20日間の厳しい船旅を楽しんで、1958年2月16日に横浜港に到着しました。

日本語学校は田浦で、神学は上石神井神学院で学びました。

1964年3月18日に聖イグナチオ教会の旧聖堂にて叙階されました。

長塚での第三修練を終えてから、S.Louisで哲学の博士号を取得しました。

その後、上智大学人間学研究室、上智社会福祉専門学校長、上智短期大学学長、鍛冶ヶ谷教会主任司祭の勤務を果たしてから、2012年からロヨラハウスで過ごし、4年後に静かに帰天しました。

私と似ていたらしくよく間違えられました。

ある日、アルぺ総長は皆に言いました。「この方に歌を頼んでください。ギターがお上手ですから…」と。ハイメは、不愉快な表情で「ギターに触れたことはございません。」と応えました。

また、いつか私は祭壇ですべきお辞儀をしなかったので、典礼に厳しかった神学院長は早速ハイメを呼んで叱りました。ハイメは、休憩室で「あまりだ!」とぶつぶつ言っていました。

カスタニエダ神父様は、誠実で、アバウトではなく正確に何もかもきちんとする人でした。しかも、目立たなくてもよいという余裕があり、知られざる優しさもありました。

例えば、哲学と神学の試験勉強を私と一緒にしてくれました、本当は私のためでしたが、それを誰にも言わなかったのです。お蔭で優等生の彼は立派な成績を取って、私はギリギリセーフで受かりました。学問のためにも管理者としての能力もあり、学生に深く愛されていました。

ハイメは今、何をしているのでしょうか?

イエスが教えられたのは、死ぬ人間が神にならないで、自然にもならないで、他の命にもならないで、全く違った状況でまさしく同じ人間として生きるということです。

速く動いている扇風機はスピードのあまりに止まっているように見えますが、同じようにハイメは空間と時間を超えた状態で無限のここに永遠の今を喜んで生きていることでしょう。

「主よ、ハイメが蒔いたあなたのたくさんの種を実らせてください。」

葬儀直後、イエズス会員たちは、ハイメの68年のイエズス会生活に感謝して、マリア様の「サルべ・レジナ」を唱えました。ハイメにとって大好きな聖母マリアの讃歌は、最高の贈り物となったことでしょう。

本当にお疲れさまでした。有難うございました。また、会いましょう!

フランソワ・ドゥ・フロモン神父(帰化名:父路門フランソワ
(1931年11月20~2014年8月9日)

イエズス会フランス人司祭で日本人に帰化されたフランソワ父路門神父様は、ガラルダ神父様と共に1964年3月18日に司祭叙階、上智大学フランス文学科にて教鞭をとられ、2014年3月に司祭叙階50周年(金祝)を迎えられ、同年8月に司祭職を全うされて神様のもとへ旅立たれました。

ガラルダ神父様からフランソワ父路門神父様へ送られたメッセージ

大切な人の大切さは不在で感じられます。その大切な方が居なくなる時、如何に偉大であったことがわかります。
男子寮の四年生が引越しをする3月のある朝のことでした。(1975年頃)
卒業する一人の寮生は、誰もいないメインストリートを雨の中、荷物でいっぱいになった荷車を押していました。それを見ていた父路門神父は、早速、杖を突いて不自由な足を引きづりながら後ろから学生に近寄って小さな傘を差し出しました。そして、自分がずぶ濡れになりながら一緒に歩き続けました。
この光景を偶然見かけた私は、「これこそフランソワだ!」と呟いたのです。
この単純な場面は、彼の人格と一生を表していると思います。

父路門(de Fromont)神父は強い人でした。難しさを避けないどころか、難しいことをより難しくして(本当に)その難しさをゆっくり乗り越える人でした。富士山に何回も登ってあの大きなブーツで溶岩の上を滑りながら麓まで降りてきました。
自分には厳しくて人には優しいという意味の強さの持ち主でした。
色々な計画と共同体の習慣に関しては、文句がかなり多かったけれども自分自身と自身の病気に対しては愚痴をこぼしたことがないと思います。
小さい時から足の不自由さと闘っていましたが、泣きっ面に蜂で、上智大学のサバティカルの時にフランスで車にはねられて、足のけががより酷くなりましたが、それに対しても何の不平も言いませんでした。

強い方でしたがかなり頑固でした。こちらが「ここに座って」と誘ったら、彼は必ず手の平を振りながら「いいえ、いいえ」と断っていました。あの頑固な男!
ところが、フランソワよりも強い方がいました。日本に来られたお母様が「ここに座りなさい。」と言えば、全く別人になったように彼は言われたとおりにおとなしく座りました。
自分がする質問に対しては、はっきりした返事が来ない限りあきらめないで、いつまでもその質問を繰り返す人でした。まるで「星の王子様」のようでした。
ところが、ロヨラ・ハウスに居た時にはもう話し声が弱くなって唇があまり回らなかったので、耳の遠い私には彼の質問がさっぱり聴こえなかったのです。それなのに私が「そうですね、さぁ、それも言える。」という曖昧な言葉でとぼけることを全く許してくださらなかったのです。では、「あなたが言うとおりです。」と私が最終的に宣言すると彼は逆に「それはないでしょう!」と言い出すのです。
そのような誠実で裏のない人でした。彼の透明性を感じていた寮生は、「父路門先生は寮の良心だ!」と言っていました。

また、素朴で形式的なことが嫌いな人でした。日本語学校時代(1958~1960年)に「今朝はお元気ですか?」とか「よく寝られましたか?」というような決まり文句の挨拶を好まなかったので、「私が反対のことを言わない限り元気なので、いちいちそんなことを聞かないないでください。」とあっさり断ったのです。
その反面、おっちょこちょいなところもありました。日本語学校の授業の時、皆の日本語の間違いが面白かったのですが、ある日、彼は「浦島太郎」のことを「うらしまマタロー」(Mataro 地中海の町)と言ったので大笑いしました。
宣教司牧も大好きでした。1974年からフランス文学部助教授であった彼は、上智大学の三木図書館で毎週水曜日の18時から学生を集めて聖書講座を開いていました。父路門神父に本物を感じていたあの当時の学生たちは、深い感銘を受け、今でもその影響について懐かしく語っております。
上智大学名誉教授に就任されてからも宇部教会、防府教会などで活躍していました。
その後、ロヨラ・ハウスに住むようになってからも毎週日曜日の8時30分からお昼まで、聴罪司祭として聖イグナチオ教会で告解を聴いていました。上石神井修道院から通うことができなくなる時までその司牧活動を続けていました。
彼の清い目と子供のような微笑を見る人はきれいな心を垣間見ることができました。
何よりもぶどうの木にしっかりつながった枝だったのでたくさんの実を結ぶことができました。地味で豊かな実です。神とのコミュニケーション、つまり、祈りの必要性と喜びを深く感じている本物の司祭でした。本物だけが残ります。

彼について言えるよいことは、もっともっとたくさんあります。
しかし、天国からこれを読む父路門神父は「そんな、そんな!この大げさな褒め方は気持ちが悪いからやめてください。」と叫ぶでしょう。でも、天国のお母様は「あなたは黙っていればよいわよ!」と叱ってくださるでしょう。
この素晴らしい方と友達になれた私たちは非常に嬉しく思います。
私たちは、父路門神父の生き方から深い刺激を受けていますし、彼に対する尊敬と感謝で心がいっぱいです。
私たちから離れて、神の身近な温かさに包まれて、時間と空間を超えて、無限のここに永遠の今を生きています。
今こそ幸せ。また会えるのです。
(2014年8月18日記)