キリストのように
キリストと共に生きたい
旅の道、道の友なるイエスだから
主日、週日の聖書、聖書講座などでお話された
神父様からの聖書の解説とメッセージを掲載しています。
全国教誨師連盟広報誌第9号 「教誨師あれこれ」掲載文より
聖イグナチオ教会 教会学校父母会「父母会便り」(2023年度 春夏号)掲載文より
弟子たちはイエスと共にエルサレムへの道を歩いていました。
イエスがエルサレムで殺されると予告されたので暗い雰囲気でした。
それに弟子たちは前からわからなかったのは、宗教の権力者たちに向かって、イエスがとっていた敵対関係ということです。
それより柔軟路線を望んでいました。逆らわないで、適当に妥協して、上手に彼らを立てて、褒めて、仲良くすればいいと思っていたのです。
表向きだけでもいい。
昔、ある学生が「先生、日本人は説教される時、頭を下げる。下がった頭の上を説教が通る。」というコツを教えてくれました。
その形だけでもいいから、弟子たちはイエスがもっと丸くなって欲しかったのです。
しかし、誠実で妥協を知らないイエスは、御父のみ心通りに話し続けていました。
それで、イエスは弟子たちに元気づけようと思って、彼らを連れて高い山に登られた。
そこでは、イエスの姿が変わり、顔が輝き、服が光のように白くなった。これは、ギリシア語の専門用語で「ゼオファネイア」と言います。(Theosは「神」、Faneiaは「現れ」)
また、「白」は復活の印にもなります。
つまり、彼らが信じるイエスが確かに神の子であり、メシアであると確認する変容でした。
「見ると、モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。」なぜこの二人がどこからともなく出てきたのでしょうか。
意見は様々ですが、私にピンとくる説明はこれです。
モーセは律法の代表で、エリアは預言者の代表だという説です。
ところが、預言者が沢山いるのに、なぜエリアは選ばれたのでしょうか。
それは、ホレブという聖なる山で神に出会いたかったのは、この二人だったからでしょう。
モーセは、洞穴から出て神の後ろ姿と足跡を見ました。エリアは、洞穴から激しい風、地震、火事が起こった時ではなく、静かなささやきの声を聴いた時こそ、外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入口で立った。(列王記19:13)今度は、この二人がこの山で神であるイエス・キリストに出会うのです。
二人がイエスと親しく話し合っていました。その雰囲気を見たペトロは、「ここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ作りましょう。イエス、モーセ、エリアのためです。」と言いました。
要するに、敵対関係に変わって律法と預言者とイエスという対等な関係は素晴らしいと思ったわけです。
そこで、「雲が彼らを覆った」と書いてあります。
聖書に何回も現れる「雲」は、神の身近な存在、隠れた存在、助けてくださる存在の印です。
「これは私の愛する子」という「声が聞こえた。」イエスが神の子メシアであると確認する声でした。
「これに聞け」、イエス・キリストの中に律法と預言者が含まれているので、イエスだけに聞けという意味の声でした。
なるほど、「彼らが顔を上げてみるとイエスの他には誰もいなかった」と書いてあります。
これは決して、神が律法と預言者を廃止するということではなく、イエス・キリストに完成された律法と預言者が含まれているという意味です。
彼らは山を降りて同じ道に戻ったが、心の元気を取り戻して、キリストのようにキリストと共に勢いよく歩き続けたのです。
つまり、聖イグナチオ・デ・ロヨラの用語でいえば、弟子たちが「霊の荒み(すさみ)(Desolación)」という状態で山に登ったが、「霊の慰め(Consolación)」という気分で山を降りたわけです。
私たちは時々、霊の荒み(すさみ)(Desolación)を感じます。
具体的な問題で悩む時もあります。
孤独な悩み、人には迷惑を掛けない悩み、隠れた川底を流れる悩み、夜明けの遠い悩み事を抱える時もあります。
スペインの素朴な民謡にあるように「束を担いで、歌いながら坂道を登っている。足には刺(とげ)、心には重荷。」
また、これという理由のない悩みもあります。
何もかも無意味に感じられる時のことです。すべてが虚しい、つまらない、楽しくしたいことはない、意味がない、心の元気はないという何となくの状態です。
これは、霊の荒み(すさみ)(Desolación)なのです。
その時、霊の慰めを願い求めるのが望ましい。
Consolaciónとは、「信仰・希望・愛の増大です。」「内面的な喜びを抱かせます。」心が望む、心を満たす、奪われないような喜び、この喜びは生きる意欲を引き出すのです。
結局、Consolaciónは、イエスの「起きなさい。恐れることはない。」と囁く声を心に感じることです。
この霊の慰めは恵みです。
この恵みを何回も願い求めて、何回も山から降りて、キリストのように、キリストと共に歩み続けるのです。
2023.08.16 J.Garralda s.j.
あなたは偉大な栄光を現すために
ロヨラの聖イグナチオをお選びになりました。
主イエスの愛に燃えた聖イグナチオは、
あなたの大いなる栄光を求める熱意を多くの人に伝え、
あまねく世界の人々にあなたに仕える道を示しました。
神よ、わたしの叫びに耳を傾け、
より頼むしもべを救ってください。
主よ、あわれみをわたしの上に、
わたしは昼も夜もあなたに叫び求める。
(詩86:1‐3)
皆さんはまた、隠れキリシタンになりましたね。
キリシタン達のように、信仰を保って、より深めて、
どんな時にも、どこにいてもキリストのように、キリストと共に居続けて、
一日も早く教会に来て、『私たちも同じ信仰です』と言って、元気な姿を現して下さい。
2021.8.22 J.Garralda s.j.
2020年11月14日㈯に西日本新聞夕刊に掲載された共同通信社からの取材記事を紹介いたします。(関係記事については、各地方新聞にも多数掲載されました。)
クリスマスの幼子イエスの福音は、キリストの生涯の予告で、手短にキリストの人生に行われる主な出来事が描かれている前奏曲のようです。
今日は、降誕節の終わりの期間で、主のご公現の祝日です。
まとめとして、ご一緒にクリスマスに出てくる主な登場人物と物事をもう一度考えて、意味を確認してみましょう。
先ず、クリスマスには天使が現れて、幼子イエスの誕生の喜びを告げ知らせます。
「今日、救い主があなた方のために生まれた。」と大きな喜びを人々に告げ知らせます。
これは、クリスマス期間の背景で、私たちの人生の背景でもあります。
神の子が人間となって、救い主として来られ、一緒におられると言う大きな喜びが背景です。喜びの原因であるその幼子イエスは、飼い葉桶に眠っている赤ちゃんです。
天使にはニつの意味があります。
一つはイエスが生まれたことを報告してくれたのは人間ではなくて天使です。
天からの報告です。人間が作りあげた宗教ではなく、人間が作りあげたイエス・キリストでもなく、天から下って来て、天使が発表します。
もう一つは預言者たちのシンボルです。人間にメシアのあり様と行いを述べ伝える象徴になっています。
ヘロデ王と旅館の宿主は、キリストを受け入れない人たちです。キリストを殺してしまう存在です。
一方、マリアはキリストを受け入れて、守って、育てて、みんなに与える、教会のシンボルにもなっています。母親としての存在だけではなく、キリストを受け入れる人々のシンボルで、神からのお告げを受け入れて、思い巡らし、守って育ててみんなに与えます。
羊飼いにはニつの側面があります、一つは弟子たちで弟子の象徴です。
天使からの言葉を聞いて見て、合っていること確認してキリストを受け入れます。
そして、キリストを受け入れ、従って、知らせました。
その反面、罪人の代表でもあります。人の畑で勝手に羊に物を食べさせて何も払わずに泥棒みたいな罪人です。
悔い改めてキリストを求める罪人の代表です。放蕩息子、売春の女、徴税人とか…。
飼い葉桶は大切なしるしです。この飼い葉桶でキリストを認めることになります。
ホームレスをも意味しています。キリストは社会に阻害されている人です。
教皇フランシスコは、「神の子が阻害されている人間として生まれて、阻害されている人間が神の子だと知らせてくださいました。」と述べておられます。
動物たちのそばには、飼い葉桶の中の餌、葉、草があり、自然がキリストを受け入れ、キリストも自然を受け入れました。
三人の占星術の学者たち、かれらはインテリの代表で、学者たちもキリストを受け入れました。金持ちの代表でもあります。全世界に広がっている外国人です。黄金・乳香・没薬(王として認める贈り物)プレゼントとして差し上げるためにやって来て、王として認めた人たちです。ユダヤ人でもクリスチャンではない人たちで、神を慕い求めている人たちのシンボルにもなります。
この日本には、神は何であるかわからないけれども求め続けている人が沢山います。
最後に星、神への道を照らす光、心の内の星と外の星があります。
内の星は聖霊の火で中から照らします。外の星は全てです。人間と善い行いと出来事と自然と。
聖イグナチオ・デ・ロヨラは、庭を散歩していた時に小さな花を見て、「すべてわかっていますよ、神のことを言っていますね。」と。内の光があれば神はすべてわかっています。
大きな喜びを感じて、心の元気を引き出して、コロナ禍の不安の中、キリストのようにキリストと共に歩き続ける事が出来ますように願いましょう。
明けましておめでとうございます。
今日は、元日で、人間となった神の母聖マリアの祝日です。
そして、イエズスの御名であるイエズス会の祝日、初金で全部、重なっています。
神様に向かって「おめでとうございます。」
と言いましょう。
「去年はありがとうございます。ごめんね!今年もよろしくお願いいたします。」
今年も新型コロナウイルスウイルスの関係で大変そうです。
今は不安、先は見えない状態ですのでよろしくお願いいたしましょう。
今年は、マリアのように母マリアと共に歩むことにいたしましょう。
元日が聖母マリアの祝日とされているのは、キリスト教の救いである聖マリアのご体内の中で始まりました。
そのためにマリアのようにマリアと共に生きることにいたしましょう。
では、2つのことを考えましょう。
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。」(ルカ2:19)
私たちもこのようにいたしましょう。
私たちは新型コロナウイルスによって色々なことが分からなくなり、見えなくなりましたが、この経験は何かを私たちに教えようとしています。
経験はいつもそうですし、報道では様々なことが言われていますが、この経験を人生に入れ込んで、自分なりに考えて、何を教えようとしているのか自分自身で考えてみてください。
柔軟性が必要です。新しい状態に合わせるための柔軟性。
ダーウィンの進化論と思いますが、動物が生き残るためには強いからではなく、
新しい状態に合わせられる柔軟性を持つ動物が生き残るのです。
人間もそうですね。
この状態に柔軟性を持って合わせることが大切です。学びましょう。
心の触れ合いも人間関係も変わりました。
マスクとディスタンスと換気によってすごく変わりました。
マスクとディスタンスと換気を超える柔軟性と心の触れ合いによって変わりましょう。
この心の触れ合いが本当の愛です。
そして、文明の発達によって私たちはコロナ禍を乗り越えていますね。
テレワークやZoom会議とかオンラインによって色々なことが変わりました。
インターネットのおかげで…。
これを学びましょう。主に高齢者もこれに学びましょう。
現代に生きるためにはこれが必要です。
ですから、「謙遜に努力しましょう。」と言うことをこの経験が教えてくれます。
2番目は、「お言葉どおりになりますように…」と言って神様に自分を委ねました。
私たちには色々な問題があります。その問題に対してすべきことをして、その問題と自分自身を神様に委ねましょう。反省すべきことも含まれています。
その問題は何故起こったのですか? ひょっとしたら自分にも責任があるかもしれませんので、自分自身も反省して、すべきことをして、あとは全部神様に委ねます。
「お言葉どおりになりますように…」
母マリアと共にアリアのようにこの年を過ごしましょう。
新しい年の初めに神様と共にいることはふさわしいことです。
愛しい方に亡くなられるのは非常に悲しいことです。その声はもう聞こえないのです。
しかし、その方は今こそ幸せ。また会えるのです。この信仰は悲しみの中の平安を感じさせます。
ところで、その方は今、いったい何をしているでしょうか。さぁ…。
イエスは二つのことを教えてくださいました。
死後の人間の外見や有様は全く違うけれども、まさしく同じ人間は永遠に生きるということです。
また、永遠の命は宴会のようです。兄弟姉妹である皆が、親である神と一緒に愛し合って、分かち合って楽しんで生きるというような宴会です。言い換えれば、永遠の命は、神と愛し合って神と仲良く生きる、人間と愛し合って人間と仲良く生きる、自然と愛し合って自然と仲良く生きるという宴会なのです。自然もまったく異なった有様で永遠に生きるはずです。
一方、この愛しい方々が私たちから望んでいるのは、今、この世の中で永遠の命を生きるということです。即ち、神と人間と自然と愛し合って仲良く生きるということです。
神様とこの方々に精神的な「年賀状」を送るのがよい。
“神よ、この方をよろしくお願い申し上げます。
この方に会わせてくださって有難うございます。”
愛しい方に願いましょう。
“これからも相変わりもせずよろしくお願いします。
あの時にも、あの時にも、いつも有難う、有難う、有難うございます。”
9月から教会活動や行事も新しい様式で少しずつ再開されましたので、
ホームページの「メッセージ」は不定期に発信させていただきます。
J.Garralda sj (2020.11.01)
今春の復活祭に予定されていました洗礼式が、10月10日と10月24日に執り行われ、火曜・金曜・土曜聖書講座受講者17名の方々が受洗されました。
2020年度聖イグナチオ教会司祭団
左から Fr.李、Fr.シルゴ、Fr.フローレス、Fr.英
Fr.ガラルダ、Fr.ボニー、Fr.ニャー
お元気ですか。高齢者同士で頑張りましょう。
新型コロナヴイルスのため先がわからないまま自粛している私たちは、向上心の原動力をあまり感じないでしょう。
感じるのは、もう十分やってきたので寝て暮らそうという誘惑でしょう。しかしそれは駄目でございます。
子供のような向上心を取り戻しましょう。
常に「マジス」の精神を活かしましよう。深さを求めましょう。
より深く祈る、より深く音楽を聞く、より深く芸術を味わう、より深く人間と自然を愛すように努めましょう。
大切なことや大事な趣味をより深く楽しめば、物事の最も深いところにおられる神を味わって、神の身近な温かさに包まれている実感がわくでしょう。
昔、外国で聖イグナチオの黙想会の新しい指導の方法を学ぶために、イエズス会の研修会に参加しました。
九十五歳の神父様は一番前のベンチに座って、一生懸命にノートを取ったり質問したりしていました。
何回も指導したはずなのに、先は長くないはずなのに、これからだと思って新しい方法を学ぼうとしていました。素晴らしい。
あの研修会の教えを見事に忘れましたが、その神父様の姿は一生忘れません。
命の限り、心の元気で有意義に喜んで生きることを願い求めましょう。
ハビエル・ガラルダ
始めてしまえば簡単に続けられる行動があります。
しかし、歩き始めるのが簡単で歩き続けるのは難しい道もあります。この道に関しては、「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない(ルカ9:62)」とイエスが言われました。
やめるべき道をやめることはふさわしいことです。
ところが、疲れてきたからやめるのはふさわしくないでしょう。面倒になってきたから軽くやめることは望ましくないでしょう。
歩き始めたらまともな道を歩き続けるほうが良い。焦らないで、怠けないで、愚痴をこぼさないで、余裕をもって楽しく歩き続けたほうが良いでしょう。
でも、後ろを顧みないで歩き続けることができるためには、続ける目的をより明らかに見つめ、続ける忍耐をより強く引き出すのが良い。
目的と忍耐。
キリストのように
キリストと共に歩みたい
旅の道 道の友なるイエスだから
J.Garralda sj (2020.10.01)
「あなた方も人に善いことをして」善い人になりなさいとイエスは言われました。
「善いことをする」のは、「裁くな、赦しなさい、与えなさい」ということです。
要するに、人が悪人だと決めないで、人の言葉と行いをなるべく良いほうに解釈することです。
自分が嫌いになった人の失敗や不幸を望まないで、喜ばないで、恨みを育てないで、受けた傷を忘れようとしてその人の幸せを祈ることです。
ケチらないで分かち合うことです。
これは「善いことをする」という意味です。
このように行う人は、良い御父の子となり、イエスのようになり,良い意味で善い人になるのです。
大人同士の場合、頼まれない忠告は高慢で無駄な出しゃばりだとされています。関わらないほうが無難だと一般的に思われています。
その通りですけれども、その態度は人の自由に対する尊敬よりも楽な無関心を物語る時もあります。神は、預言者エゼキエルを通して「あなたが、悪いことをしている人に悪い道から離れるように語らないなら、私はその責任をあなたの手に求める」と言われます。
真実は最高の親切になることもあります。相手のプライドに傷をつける真実も最高の親切になり得ます。遠慮し過ぎて言うべき真実を言わない人は、一見、優しいと思われますが、本当は一番不親切な人になり得ます。それは、もう我慢できなくなって、今更遅い時にはいっぺんで全部言いすぎるからです。
では、いつ話したほうがよいでしょうか。自分がそれを決めるためには、次のような当たり前な点を確認すればよいと思います。
即ち、忠告するのは相手の成長と幸せのためだということを忘れないように。
自分の絶対的な真実を告げるよりも、噂によらないで直接に事実経過とその理由について話し合うのです。
その人と信頼感がなければ黙っていた方がよいでしょう。
言う必要性のない真実を言わないほうがよいでしょう。相手を放っておけば自然に治る時もあります。
その真実を聞く相手がその欠点か過ちを直すことができそうもなければ、「知らぬが仏」という態度は妥当になります。
その真実を言う時にも言わない時にも、相手のために祈ることは望ましい。
裏を返せば、自分は果たして、言われる忠告を素直に受け入れるでしょうか。少なくともその助言を謙遜に考えるでしょうか。
真実を言うための愛、真実を受け入れるための謙遜を願い求めましょう。
神に少しずつ引き寄せられた私たちは、神に捕らえられました。イエスにはまりました。「父よ、あなたこそわたしの神。わたしのすべてをあなたに(詩篇71)」と呟きながら自分を神に委ねました。イエスに出会ってイエスを信じ愛するようになったのです。
信仰は最高の恵です。人生の頼りになり、信頼と希望のもとになるのです。信仰は生きる意味と目的を抱かせるのです。頂いた信仰を美味しく味わって深く感謝すれば喜んで生きることができるでしょう。
自分が引き付けられた次第はだいたい次のようです。自分は何となく虚しかったのです。まさに「荒地の渇き果てた土のように、神よ、わたしはあなたを慕う。(詩篇63)」という気持ちでした。神とイエスを知らなくても、虚しさを満たす何かを慕い求めていました。しかし、神がおられる場を知りませんでした。
神がおられるのは、物事の最も深い処です。小さな磁石のように、自分の最も深い処にも、他の人の最も深い処にも、自然や芸術の最も深い処におられるのです。
自分は深い処の自分と親しく話して、つまり、祈りのような姿勢で深さに近寄ったので、その深さで磁石の影響を感じて神に引き寄せられて捕らえられたわけです。また、人間と自然を深く愛して深さに近寄った自分は、磁石の影響を受けて神に捕らえられたのです。祈りと愛のお蔭で神に引き寄せられたわけです。
しかし、何のために捕らえられたでしょうか。捕らえられる目的をイエスは知らせました。「自分(エゴ)を捨て、自分の十字架を背負って、(多様な苦しみを耐え忍んで)わたしに従いなさい。(マタイ16:24)」この目的のために捕らえられました。イエスに従うとは、旅の道、道の友なるイエスのようにイエスと共に充実した人生を送るということです。
この信仰は、エレミヤ曰く、「わたしの心の中、わたしの骨の中に閉じ込められています。(20:9)」
ところが、信仰のほやほやの期間が過ぎ去って、自分の方からだんだん神から離れる危険性があります。特にこのパンデミックの状態は危ないのです。F.Mauriac(モーリアック)が書いたように、「信仰は失われません。財布とか傘のような物は失われますが、信仰は失われないのです。ただし、信仰に従って生きることは失われやすい。
ですから、常に初心に戻ることは必要です。ひとりでに下がるギターの弦を毎回少し上げなければならないと同じように、初心に何時も戻るべきです。
戻ることができるためには、主に二つの手段があります。より深く祈ることとより深く愛することです。この二つの手段で何回も深さに近寄って、何回も磁石に引き寄せられて、より固く神に捕らえられることでしょう。
「より大いなる神の栄光のために」働いた
イエズス会創立者、
聖イグナチオ教会の保護聖人
イグナチオ・デ・ロヨラのご像の前にて
Withコロナ時代にあっても
困難を乗り越えるために
「くどく、しつこく、
飽きずに祈り求めましょう!」
J.Garralda sj (2020.08.29)
人間は色々な悩みを抱えています。病気、大切な人の死、裏切り行為、不公平な状態、金銭的な問題のような個人的な悩みの他に、パンデミック、洪水、津波のような共通の災いが人間に降り掛かります。
そのような場合、全能の父である神の定めを理解し尽くすことはできません。しかし、それをもうちょっと理解できるために少し考えてみましょう。
神は、悲しみを送るよりもそれを私たちと共に受け入れると思います。悩んでいる人を抱きしめて「あなたの悲しみを知っている」と呟きながら共に悩んでくださると思います。しかも、慰めてくださるばかりでなく、その痛みを恨みや不平に変えるのではなく、痛みを愛に変えるために中から励ましてくださるのです。
苦しみを直接に送るのは、自然法則と人間の自由です。ウイルスや津波の原因は自然法則です。戦争や裏切り行為の原因は人間の自由です。悪い目的のために自由を使う人間です。
確かに、その法則を決めてその自由を与えてくださったのは神です。神は最終的な責任者になるのです。自分が無神論者だ(?)と宣言していたA.カミュはこのような皮肉を書きました。「自然法則を定めるのが人間に任せられていたならば、人間は神よりうんとまともな自然法則を定めたでしょう。神の失敗の言い訳は一つです。即ち、自分が存在しないという言い訳です。」また、『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンは神に向かって、エゴイズムと傲慢の塊である人間に自由を与えたのは神の大失敗だと批判しました。
確かにこれは人間に「理解し尽くせない」点なのです。
他方では、神は人間を助けてくださいます。その方法は次の話に描かれています。
大雨で川の水があふれ出た時、家の屋根の上に一人のおじさんは立っていました。助け舟が近寄りましたが、彼が「私は神を信じる、舟なんて要らない」と言って断ったので、小舟は離れました。水が彼の首まで上がったとき二番目の助け舟が来ましたが、彼は依然としてきっぱり断ったのです。水が鼻まで上がったところ三番目の助け舟は来たが、「私は神を信じる」と宣言して乗りませんでした。ついに水が頭の上まで上がったので叔父さんは溺れて死んだのです。ところが、天国に着いた彼は怒って神に不平を言いました.「神様を信じていたのに助けてくださいませんでした!」神はため息をついて、「頑固な子だな、三つの助け舟を送ってあげたじゃないか」と答えました。こんな話です。
つまり、神はおじさんを直接に抱きしめて救い出したのではなく、人間の思いやりを通して助けようとしたわけです。
ところで、実際に助け舟に訪れてもらえない人はやたらと多いのです。しかし、その悲しい事実は神の無関心や差別を表すのではなく、人間のエゴイズムを物語るのです。
私たちが互いに助け舟になるべきなのに自分さえ困らない限り何もしないから「溺れて死ぬ」人は極めて多いのです。
従って、イエスのようになりましょう。イエスは苦しみを耐え忍んで、神を信じて愛し、なぜかと聞かないで苦しみを受け入れ、最後まで私たちの救いを求め続けました。イエスは私たちの助け舟です。
私たちも、神の定めを完全には理解し尽くせなくても、神の愛を信じて神の明らかな望みに従って互いに助け舟になりましょう。
イエスはカナンの女の申し出を三回ほど却下しました。一回目は「何もお答えにならなかった」時です。二回目は「わたしは、イスラエルにしか遣わされていない」と説明した時です。三回目は「子供たちのパンを小犬にやってはいけない」と確認した時です。つまり三回。
それにしても、彼女の信仰を見て感動したイエスは素直に自分の負けだと認めて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と考え直して、その時、娘の病気は癒された。
「考え直すことは頭の良さを物語る」というラテン文学の言葉があります。再検討は知性の証明になり得ます。
ただし、イエスは決して、感情のままに考え直したわけではありません。気まぐれの感情は不公平性のもとになります。「イエスは、彼女の強い信仰、願い求める根性、悩みの深さを評価して、特別な例外を設けたわけです。
「私はイスラエルにしか遣わされていない」と宣言したイエスは、いただいたミッションを厳しく守っていました。今日の福音のシドン地方のカナンは、ガリラヤのカナとは違って、イスラエルの外です。その異邦人の国では奇跡を行わないことになっていたのです。
しかし、イエスは正しさと同時に心の温かさもある方なので, 三回“No”と断ってから、考え直して、“Yes”と答えて娘を癒されたのです。
ところで、この厳しさの中の柔軟性はどこから生まれるでしょうか。イエスはご自分に対して「私は心やさしく、へりくだる者だ。(マタイ11:29)と打ち明けてくださいました。ミカ預言者が書いたように(6:8)へりくだって神と共に歩んでおられたので、正義を行いながら、哀れみを愛しておられたのです。へりくだる人は自然に優しい正しさに満ちるのです。
要するに、正しく考え直す柔軟性は謙遜から生まれるのです。高慢で頑固な人は、自分の間違いを認めません。本当に頭の良い人は謙遜です。「実るほど首を垂れる稲穂」のように謙遜です。実らない稲穂は軽いので威張ってそびえるわけです。本当の知恵のある人の頭は、豊かさのあまりに重くなって自然に下がるのです。無理して謙遜になろうと思うよりは、自ずと謙虚になるわけです。
謙虚な人は状況を明らかに見て、必要に応じて考え直す余裕があります。
私たちは互いに注意し合うことがあります。両親、友達、教育者、上司などは、人に忠告しなければならない時があります。その場合、厳しい言葉のより深い心には謙遜と温かさがありさえすれば、それを見抜く相手は、嫌な顔をしてブウブウと呟いていながらも、結局その忠告に従うことになるでしょう。人間は言葉よりもその言葉の裏にある温かさ或いは冷たさをはっきりと感じるのです。
謙虚な心から生まれるしなやかな厳しさを願い求めましょう。
熱心なペトロの憧れはイエスと一緒に居ることでした。危ない時にも、十字架を背負わなければならない時にも、嵐の中で湖の上を歩かなければならない時にもイエスのそばに居たかったのです。素晴らしい憧れです。
でも、自分勝手に行くよりもイエスに派遣されて行きたかったのです。「主よ、水の上を歩いてそちらへ行かせてください。」とペトロが頼んだ時、イエスは「来なさい」と言われました。「ペトロは船から降りて水の上を歩き始めたが、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけた。イエスはすぐ手を伸ばして捕まえ『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」
「なぜ疑ったのか」という戒めは、ペトロの二つの間違いを指摘します。
その一つは、彼がイエスをじっと見るよりも波を見たということです。イエスをしっかり見つめていたならば怖くならないで自信を失わないで沈みかけなかったでしょう。例えば、ある点まで長い線を引きたい時には、線を見ないで的になる点をじっと見つめるのです。そうすれば大抵まっすぐな線を描くことができるのです。書いている線を見ていれば、的外れで曲がった線になるでしょう。つまり、波を見てイエスを集中して見ていなかったことはペトロの一つの間違いでした。
もう一つの過ちは、自分の信仰を頼りにしないで、イエスの手に頼ったということです。例で言えば、サーカスの空中ブランコで危ない軽業をしている曲芸師の下には、万が一のセーフティーネットが敷いてあります。しかし、アーティストが頻繁に気持ちよくその網に落ちるのなら、速やかに辞めさせられるでしょう。頼りにすべきなのはネットなのではなく、自分の技術と力なのです。さて、助けて下さるイエスの手はそのセーフティーネットのようなものです。有り難い安心感の元になります。けれども、イエスの手を頼りにしてはいけないのです。頼りになるのは自分自身の信仰と元気なのです。
人間関係で悩んで、金銭的な問題で困っていて、新型コロナウイルスで不安になっている私たちもその大波に気が付いて、自信喪失と無気力感のため沈みかけているかもしれません。
そのつらい時には、波をあまり見ないでイエスをじっと見つめましょう。また、イエスの手に頼りすぎないで自分の信仰と元気を頼りにしましょう。
しかしそれと同時に、「安心しなさい。私だ。恐れることはない。あなたが信じる通りになる。私はいつまでもあなた方と共にいる」という言葉を心の底に入れましょう。
セーフティーネットになるこの言葉を感じながら、イエスのようにイエスと共に生きることを願い求めましょう。
この箇所には二つの意味があります。文字通りの意味の中に、イエスの復活後の予告も含まれています。
「ペトロの船」には「教会」という意味もあります。「波」は迫害、様々な困難を象徴します。イエスが「ひとり山」におられることは、昇天してそばにいないという心細い状態を表します。「湖の上」を歩いておられるイエスの特別な体は、復活してから自然法則を超える身体を描きます。復活後のイエスを見た弟子たちは「幽霊」だと思ったことがあります。その時にもイエスは「私は幽霊ではない。わたしだ。」と主張しました。
つまり、この世から離れたイエスはいつまでもそばにいて、助けて下さるという事実を知らせる箇所です。多様な波に悩まされている私たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と呟いて、いつまでも一緒に居て下さるイエスの言葉です。
心が汚れていれば、口から出てくる言葉も汚れているでしょう。しかも、その汚れた言葉が口から出てくるとき相手を汚すばかりでなく、自分の心を汚すことになります。
心が綺麗であれば、口から出てくる言葉がさわやかでしょう。しかも、その言葉が口から出るとき相手を喜ばせるばかりでなく、自分の心を清めることになります。
悪口、批判、裁き、ひっきりなしの文句、妬みや恨みが生み出す言葉を口に出さないほうが良いでしょう。でも、嫌なことを口に出さないためには、嫌な考えを心から追い出さなければならないのです。心の中でうろうろしている考えは、いずれ言葉になってつい口から出てくるのです。
人を励ます言葉、元気と自信をつける言葉を口から出して人に深い喜びを感じさせれば、結果的に自分の心を清めることになるでしょう。「情けは人の為ならず。」
このたとえ話の中心は種です。種は大切にすべき貴重な宝物です。
「種は心の中に蒔かれた御国の言葉です。」聖書の言葉だけではなく、心に強く響いてくる真理も種になります。
種を蒔く方は神です。しかし、神は人間を通して、自然や芸術を通して人の心に種を蒔いてくださいます。親からの言葉、友達の話、人の立派な行い、本の文書、映画の場面、音楽、夕日、つまり深い感動を抱かせる物事は種になるわけです。その種を丁寧に成長させるのです。
成長する種は実を結びます。実を結ぶのは救いを感じさせることです。心が望む、心を満たす喜びを感じる人は救われます。愛の行いをもって人に救いを感じさせるのは実を結ぶことです。
神は平等に種を蒔きますが、問題はその種を受け入れる姿勢です。このたとえ話の種を受け入れる四つの土地は、言葉を受け入れる四つの姿勢を表します。
「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。怖いコンドルならこちらは構えるが、「めちゃ可愛い」小鳥は大丈夫だろうと思われます。それは甘い。その小鳥こそあなたの種を持って行くのです。こちらを悪いほうに引っ張る面白い友達とか、格好いい人とか言うようなものはヤバイ小鳥になり得るのです。
「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。」これは、お金や出世を必要以上に求め過ぎる人の姿勢です。成功や評判に憧れる人のことです。特に周りの人たちの上になりたい人の姿勢です。高慢と妬みは種をふさいでしまいます。
「ところが、他の種は、良い土地に落ちて実を結んだ。」「良い土地」とは、「御言葉を聞いてそれを行う人である。」受け入れる言葉を実行に移す人は、その土地を良い土地にするわけです。
良い土地を造って実を結ぶことを願い求めましょう。
「神よ、あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光。(詩篇119:10)」
「神よ、み旨を行うことは私の喜び。(詩篇40:9)」 しかし、だれが神のみ旨を教えてくださるでしょうか。
主の望みを知らせるのは、モーセ、ミカ、メシアであるイエスという「3M」です。
モーセは、主が命じる掟を知らせました。「聞け(Shema)イスラエルよ。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。(申命記6:5)(ルカ10:27)」根本的ではっきりしたみ旨です。
ミカ預言者は宣言しました。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(ミカ6:8)」素晴らしくてわかりやすい便りです。
メシアであるイエス・キリストは、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。(ヨハネ15:12)」つまり、神のみ旨はキリストのようにキリストと共に愛しながら生きるということです。
ただし、この「3M]の啓示を自分の具体的な状況に当てはめるためには、聖霊の光を祈りながら真剣にみ旨を聞き分ける必要があります。
「新しい葡萄酒を新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。」
これはまさしくその通りです。しかし、角度を変えれば古い革袋に新しい葡萄酒を入れる方が良い時もあります。考えてみましょう。
「葡萄酒」は教えです。旧約聖書の教えは律法で、新約聖書の教えは福音です。
「革袋」は掟です。教えという葡萄酒を包んで保って、具体的な行いにつなげる掟です。
モーセの律法という革袋には目に見える細かい掟が沢山あります。イエスの革袋は「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」と言うたった一つの掟です。ゆとりのある新しい教えは、ゆとりのある新しい掟を要求するのです。
ところが、愛という抽象的な掟と同時に具体的な規則もなければ、意志が弱くて楽な道を歩きたがる人間は、"All you need is love"と歌いながら、勝手な行動をとったり、怠けたりする状態は目に見えているのです。
従って、まともな規則を否定しないで、愛の葡萄酒をあらゆる革袋に入れ込むのは正解でしょう。愛は掟を守る意味と原動力を深めます。例えば、暑くて面倒くさいマスクは自分を守ります。しかし、自分のマスクが他の人をも保護し、安心感を抱かせます。
人を大切にするという愛をマスクの規則に入れ込めば、古い革袋と新しい葡萄酒が生き生きとなって、「両方とも長持ちする」でしょう。
つまり、愛の掟を守ると同時に、愛を込めてあらゆる掟を守ることにしましょう。
「敵が来て、麦の中に独麦を蒔いて行った」
敵は悪魔です。ユダヤ文学が述べるように、最も優れた大天使ルシフェル(光をもたらす)は、傲慢な態度をとって「神に仕えない!」と宣言しました。その瞬間に名前がサタンに変わり、彼のために作られた地獄に転落しました。その時から、神を恨んで、人間を誘惑して罪を起こさせるようになったという伝説です。聖書には書いていない伝説です。
誘惑者の影響は強い。蛇を通してイブを誘惑しましたし、荒れ野でもゲッセマネでもイエスを誘惑しました。ユダに入ってイエスを裏切らせました。
ところで、悪魔は理性と自由のある独立した方(ペルソナ)でしょうか。それとも悪そのもの、悪の根源でしょうか。カトリック神学者は大抵、ペルソナだと思ってきましたが、最近、諸々のカトリック神学者たちはそれがはっきりしないと主張しています。
ご自由に考えて下さい。
しかし、人間が誘惑を受けることは間違いないことです。これに関して、ミハエル・エンデは『モモ』という大人向きの童話に面白い説を書きました。「灰色の男たち」という誘惑者たちは、実際に存在すると言えば存在しない、存在しないと言えば存在するという微妙な現象です。誘惑して獲得するタバコの煙によって生きるが、煙がなくなったら分解されて無になります。例えば、ボランティア活動していた床屋さん(フィガロさん)は、もっとお金が欲しいのでどうしようかなと戸惑っていました。その時、いきなりどこからともなく灰色の男が現れました。鏡にチョークで手早く数字を書いて、その活動をやめて一日の仕事に二時間を増やせば、一週間にこれだけ、一ヶ月にこれだけ、五年間にこれだけの大金を手に入れることができるのです。その説得力に圧倒されたフィガロはボランティアをやめることを決めました。その時、誘惑者が見えなくなり、鏡の数字が消えて、一人になった彼は自分で決定したことだと思い込んでしまいました。
決定させられたのに決定したと思わせられたのです。誘惑の仕方は鋭い。なお、この灰色の男たちがどこから生まれてきたかと言いますと、まず人間の中のエゴイズムと高慢からです。それと共に外からの様々な力からも生じるのです、すなわち、マスコミ、流行、周りの価値観などの力から生まれるのです。
その誘惑を受ける人間が弱いので危ない状態になっているのです。誰かが冗談で言ったように「私はすべてに勝てます。誘惑には負けます。」
しかし、イエスが言われたように「恐れることはない。御父と私は、その敵からあなた方を守って下さる保護者(聖霊)を送る。」聖パウロが書いたように、聖霊の火を消さなければいつもも喜んで生きることができます。キリストのように聖霊に満たされて、聖霊に導かれて生きることにしましょう。
また、母マリアという「婦人」も私たちを守って下さいます。イエスは不思議に、カナの結婚式の時にも十字架上からも母親に向かって「婦人」と呼びます。それは、創世記と黙示録の「婦人」のことです。蛇の頭を踏み潰して羊をドラゴンから守る「婦人」です。
そして、「婦人」は「教会」の象徴にもなります。コロナ禍のために門と壁の中の教会にあまり行かれなくなった信者たちは、外でも教会の精神を生かして、互いに連絡を取って守り合うことができるのです。
ところが、最終的に自分を守るのは自分自身です。火遊びをすれば火傷するかもしれません。「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈りなさい。(マタイ26:41)」
謙遜は安心感の元です。油断大敵。
ですから、聖霊、母マリア、教会からの保護を願いながら快く生きることにしましょう。
2020年5月22日(金)の西日本新聞夕刊に掲載された共同通信社からのインタビュー記事を紹介いたします。
「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来たが、群衆に阻まれて家に運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て中風の人に、『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人がすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。」
病人をどうしても癒して頂きたかったその男たちは、「今日は無理だからまた今度にしよう」とか言わないで、イエスを全面的に信じてあのような極端な方法を考えつきました。後できっと屋根の修理代を支払ったことでしょう。
そのような愛から生まれる信仰を見るイエスは、人を癒してくださるのです。
私たちもこの男たちのように、困っている人を大切にして神を本当に信じていれば、それを見るイエスはその人を癒してくださるでしょう。
愛が生み出す信仰を願い求めましょう。
「重い皮膚病を患っている人は、『御心ならば、私を清くすることがお出来になります』と言った。イエスは手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」
苦しんでいる人に近かったイエスは、人の立場から人の苦しみを見ることができました。それ故に人の苦しみを感じて、いつも手を差し伸べておられたのです。
ところが、本当に困っている人から空間的にも精神的にも遠ざかっている私たちは、その人の苦しみを自覚しないので、手を差し伸べる必要性を感じないかもしれません。
例えば、新型コロナウイルス感染の拡大を防ぐためには手を洗うのが非常に効果的なことです。これを知っている私たちはしっかり手を洗うことにしています。これは極めて妥当なことです。
しかし、そうしている自分たちは、家の蛇口をひねって水を出すのが当たり前だと思っているようです。生憎それは違います。飲むための水にはもちろん、手を洗うための水にもアクセスすることのできない人はこの世の中にやたらと多いのです。自己中心の自分たちには、このような事実の認識が足りないと思います。
空間的にも精神的にも、本当に弱い立場に置かれている人に近寄りましょう。
そうすれば、イエスのように人の悩みがわかり、イエスと共に手を差し伸べることになるでしょう。
サレプタは地中海の海岸の町でした。異邦人のティルスとシドンの間にありました。
サレプタのやもめと神殿のやもめの与える姿勢といただいた報いを考えましょう。
「数年の間、露も降りず雨も降らない」時のことでした。「エリヤはサレプタに行って一人のやもめに声をかけた。『私のためにパンの一切れを手に持って来てください』と言った。彼女は答えた。『私には焼いたパンなどありません。ただ、壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけです。私と私の息子の食べ物を作るところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。』エリヤは言った。『まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。主はこう言われる。主が地の表に雨を降らせる日まで、あなたの壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。』やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」
主の言葉を信じてすべてを与えるこの未亡人の深い信仰と寛大な心は立派でした。その信仰と寛大さをご覧になった主は報いてくださいました。
ところが、すべてを与えた神殿のやもめを見ておられたイエスは、感動して彼女をほめられたけれども、この世の中では褒美を与えませんでした。家に帰った彼女は、奇跡的にテーブルの上に高価なダイヤモンドでも見つけたわけではないのです。
しかし、その夕方かいつか近所の友だちが来て、「パンを多めに作ったので、召し上がりますか」と言ってくれたかもしれません。友情はダイヤモンドより貴重なものです。
しかも、幸せになるためには、財産や出世よりも、彼女の素晴らしい心がはるかに役立つものなので、彼女をそのままにしたほうが良いとイエスが思われたでしょう。「美しいバラに触らないほうが良い。ただ見て感動するのです。」という詩はこの未亡人にも当てはまるのです。
今日は「聖母のみ心」の日です。マリアも未亡人になっていたでしょう。主の言葉を信じて、心に受け入れて、思い巡らして自分を主に委ねました。この母マリアを通して信仰と寛大な心を願い求めましょう。
「疲れている者、重荷を負う者、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」
イエスのもとに来る人もイエスと共に歩く人も休ませていただきます。
「柔和で謙遜な」イエスは、孤独を感じる人を受け入れてくださる、わかってもらえない人を理解してくださる、罪を犯したので落ち込んでいる人を慈しんで赦してくださるので、ご自分のもとにただ居る人を休ませてくださるのです。
また、イエスと共にイエスの軛を負って生きる人も疲れ果てていても休ませていただくのです。
軛はあの当時、地を耕すために牛の首にかけるカラーでした。しかし、軛は教え、掟の象徴にもなっていました。ユダヤ人がおっていた軛は律法でした。先生の教えは弟子の軛です。
「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」という掟は、イエスの軛なのです。
イエスのようにイエスと共にその軛を負って歩くこと自体は、心の休みになります。
人が助かるために人に仕えるという方針で生きること自体は、体と精神が疲れていても、心の一休みと心の元気になるのです。
この心の休みと心の元気を願い求めましょう。
この箇所の美しい言葉を、反省しながらゆっくりと読めば良いでしょう。
施しと祈りと断食は、目に見える形で宗教心を表す三つの善行とされていました。偽善者たちは信仰深さを見せるために堂々としていた善行です。
偽善を嫌っている誠実なイエスは、「見てもらおうとして人の前で善行をしないように」と言われました。良いことをする時、人の目をあまり気にしないで、「隠れたことを見ておられる父」の視線を感じるようにしなさいと勧めました。
善行の全悪基準は動機です。この前にもここに書いたようにイエスは山上の説教で、「あなた方の光を人々の前で輝かしなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)」私の行いを見ている人が神に近寄りたくなるという動機は優れています。人に褒められるという動機は偽善です。反省、反省。
「隠れたことを見ておられる」父の視線は安心感を抱かせてくださるのです。
確かに、自分があまりよくないことを行ったり考えたりしている時には、隠れたことを見ておられる父の視線はちょっと気になります。しかし、その時にも有り難い視線です。自分が自分を騙さないように見ておられる父の目なのです。
ところで、考えて見れば、偽善者たちの反対行動を生き方で見せてくださった人は、神殿のやもめです。目立たないで自分のすべてであった二十円を賽銭箱にそっと入れたやもめです。それゆえ、「隠れたことを見ておられる」イエスは、目には見えない彼女の純粋さを深く見て感動して褒めてくださったのです。
「エリヤは、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているエリシャに出会った。エリシャのそばを通る時、自分の外套を彼に投げかけた。」
この格好いいジェスチャーは、私の弟子になりなさいという呼びかけを意味する行動です。
「エリシャは牛を捨てて、エリヤの後に追い、『私の父、私の母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います』と言った。」当然な望みです。しかし、エリヤはそれを赦しませんでした。
それは、接吻がソーシャルデイスタンスの規則に背いているからではなく、あの当時の先生方が、すぐに来てくれないと来なくても良いという熱心さを要求していたからです。「エリヤは、『行って来なさい』と答えた。」要するに、君が戻って来るとき私はもうここにいないよという意味のあっさりした返事でした。
「エリシャは、一組の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、自分の僕たちにふるまって食べさせた。それから立ってエリヤに従った。」これも格好いい。
因みに、旧約聖書には、何かが起こるとすぐに動物を屠るという嫌な習慣が目立ちます。イエスもそれを嫌っておられたので、動物を生け贄にする習慣を終わらせ、自分自身こそ唯一で最後の生け贄になることにしました。
エリシャの姿勢は立派でした。エリヤと一緒に行って、仮に後悔していつか戻りたくなったとしても仕事はできないようにしたわけです。戻らない決心して、すぐに全面的に従ったのです。
イエスに呼ばれた弟子たちも、「すぐに網を捨ててイエスに従った。(マタイ4:20)」
イエスの呼びかけを感じる私たちも歩き続けるために邪魔になっている物事を捨てて、すぐに全面的に従うことができるように願い求めましょう。
「願う」とは祈って委ねることで、「求める」とは自ら努力することです。
「あなた方が最も小さい者のためにしたのは、私にしてくれたことなのである。」
要するに、人に仕えるのはイエスに仕えることになり、イエスに出会えることになるわけです。
ところが、イエスに出会えるために人に仕えるのではないのです。目的はその人なのです。その人を通してイエスに出会うことは結果なのです。
ディミトリという信仰深い人は、農夫を助けたので約束の真昼に遅れて神に逢えなくなったという話があります。しかし、実際、その農夫が助かるようになったこと自体は、結果として神との思いがけない形の出会いになったのです。
また、神との出会いは幸せを求めることに例えられます。「幸せは蝶のようです。花にとまっている蝶を指でつかもうと思えば、蝶は逃げます。もし自分が何かをじっと見つめていれば蝶はそっと肩にとまってくれます。」
ですから、「幸せになりたい」と求めるよりも、むしろ心が望み、心を満たす何かを本気で求めれば、その結果として幸せがいつの間にか肩にとまっていたことに気づくでしょう。悩んでいる一人でも多くの人間が助かるという目的をじっと望んでいれば、その結果として思いがけない形でイエスに出会うことになるでしょう。
神の身近な温かさに包まれていることを潜在的に感じることになるでしょう。
モーセとエリヤは神の山ホレブで主に出会いました。弟子たちはガリラヤの高い山で神であるイエスに出会いました。。
イエスの変容という複雑な箇所に関してはいろいろな解釈がありますが、私の好きな解釈の中では、出合いと関係のある一つだけの部分を説明してみましょう。
「イエスは三人の弟子を連れて、高い山に登られた。」おそらくタボル山だったと思われます。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。これは神の表れというTheophaniaです。「見るとモーセとエリヤが現れた。」ホレブ山に登って主に出会ったモーセとエリヤです。ずいぶん前に死んだこの二人もタボル山にいます。
「そのうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。」聖書における雲とは、神の隠れた存在、身近な存在、救いにかかわってくださる存在の象徴です。「すると、『これは私が愛する子、私の心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」。
神は「これに聞け」と言われました。要するに、神はご自分が話したい言葉をイエスに言わせるのです。より厳密に言えば、神の言葉はイエス自身です。しかも、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった(ヨハネ1:1)」と書いてある通り、神の言葉であるイエスは神であるということです。。
その意味で、その山でイエスの本来の姿を見た弟子たちは神に出会ったわけです。「私を見る人は神を見る」とイエスがた時々言われた言葉です。。
「彼らが顔を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。」それは、神のすべてがイエスに集中しているからです。イエスの中には律法と預言者が含まれているのです。この箇所には、モーセは律法の代表でエリヤは預言者の代表になります。「イエスの他には誰もいなかった。」。
つまり、神に出会いたかったモ-セはホレブ山で神の足跡と後ろ姿を見ました。エリヤは同じ山で神の静かにささやく声を聴きました。弟子たちはタボル山で神であるイエスを見ました。。
この三つの出会いから神を求める方法を学びましょう。神の足跡である人間と自然を深く愛し、充実した沈黙で静かにささやく神の声を心に受け入れ、イエスの言葉を聞いてイエスのようにイエスと共に生きることにしましょう。
神を見たかったモーセに「主は言われた。私はあなたの前にすべての私の良い賜物を通らせるが、あなたは私の顔を見ることはできない。私を見てなお生きていることはできない。私はあなたをその岩の洞穴に入れ、私が通り過ぎるまで私の手であなたを覆う。私が手を離す時、あなたは私の後ろを見るが、私の顔は見えない。」
神が見せてくださるのは足跡になる賜物と、また後ろ姿だけです。本質である「顔」は見せてくださらないのです。
因みに、色々な聖書学者は、五世紀後に神の山ホレブに居て主に会いたかったのでエリヤ預言者も同じ洞穴に入ったのではないかと主張しています。
いずれにせよ、「神の賜物」という足跡は、神によって存在する人間と自然です。
したがって、人間と自然を深く愛すれば、神の後ろ姿を見垣間見ることができるのです。
しかし、顔は絶対に見えないでしょうか。
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る(マタイ5:8)」と書いてあります。要するに、この世の中で神の足跡になる人間と自然を純粋に愛する人は、この世の中で神の後ろ姿を垣間見て、来生活には顔をも見ることができるでしょう。
パウロが書簡(Ⅰコリント13:12)に書いたように「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には(死んでからは)、顔と顔とを合わせて見ることになる。」
つまり、生きている間は、清い心で人間と自然を深く愛すれば、この世の中で神の後ろ姿を垣間見ることができるのです。
また、この世の中で神の後ろ姿を垣間見るほど正しく生きる人は、死んでから「顔と顔とを合わせて神を見る」ことができるということです。
問題は、自分には神に逢いたい熱意があるか否かということです。
この熱意を願い求めましょう。
神が現れることは Theophania と言われます。(「ゼオ」は神で、「ファニア」は現れです。)あの当時、強い風、地震、火事などが時々ゼオファニアとされていました。
これを背景にして、是非とも主に会いたかったエリヤの場合を考えましょう。
「エリヤは神の山ホレブに着き、洞穴に入って夜を過ごした。」その時、主は、「私が通る時、そこを出て山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。エリヤは洞穴の中にじっとして通ってくださる主を待ち望んでいました。
「非常に激しい風が起こった。しかし、風の中には主がおられなかった」のでエリヤは洞穴から出なかったのです。「風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主がおられなかった」のでエリヤは出なかったのです。「地震の後に火事が起こった。しかし、火の中にも主がおられなかった」のでエリヤが出なかったのです。「火の後に、そよ風のように静かにささやく声が聞こえた。それを聞くとエリヤが外套で顔を覆い、出て来て洞穴の入口に立った。」
主は、強い風、地震、火事という激しくて派手なところにはおられなかったのです。
「そよ風のように静かにささやく声が聞こえた」時には、エリヤが神に出会ったのです。
主の声を聴きたい私たちもそのささやきを静かな沈黙の中で聴くことができます。
沈黙と言っても、外側からの声と雑音を下げるという物理的な沈黙よりも、内側からのエゴを下げるという心の沈黙なのです。
エゴイズムと高慢によって汚されている浅いところの自分に話すという虚しい沈黙よりも、愛したい自分、本当の自分という深いところの自分と話す時には、そよ風のように静かにささやく声が聞こえるような気がするのです。
神に出会いと常に望んでいる私たちも充実した沈黙という祈りの中で心の耳を主に傾けて、じっとして待ち望むことにしましょう。
弟子たちが何も持たないでミッションに派遣されたのは、お金に頼らないで神を頼りにするという信仰を強めるためでした。
しかし、神は直接に助けて下さるよりも、家族、親戚、友達を通して見守ってくださいます。ところが、弟子たちが送られた町や村は、家族も親戚も友達もいない所でした。
ですから、善意の人たちを通して神を信じるという信仰を強めることは、「何も持たないで行きなさい」という派遣の目的でした。
でも、イエスは「ふさわしい人はだれかをよく調べなさい」と確認します。それは、すべての人が信用できるわけではないからです。けれども、よく調べれば善意の人を見つけるはずです。神はその良い人々を通して見守ってくださるのです。その良い人を信じて神を信じるようになるのです。
ただし、「旅立つ時までその人のもとにとどまりなさい。」良い友達を見つければ、いつまでもその人に対して忠実でありなさいということです。自らその家を出てはいけないし、その家から追い出されないようにきちんとしなさい、忠実でありなさいということです。
自分のせいでは良い友達から離れないように、また、自分のせいでは良い友達が離れないように忠実な友達でありなさいということです。
イエスは、夫婦の離婚はもちろん、一時の気まぐれで続かない友情も好まないのです。何をやらせても長続きしないという飽きっぽい性格を感心しないのです。
ふさわしい人々を探して、その人を信じてその人にずっと忠実であれば、その人々を通して神を信じるようになり、「何を待たないで」、お金に頼りすぎないでキリストのように、キリストと共に生き続けることができるでしょう。
イエスは、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と宣言しました。その方法を学びましょう。
イエスはまず、律法のたくさんの掟から根本を引き出してそれを行いで実現します。
それから、根本を基準にして他の掟の重大さを定めます。こんな方法です。
聖書である「律法と予言者」の基本は、もちろん、「聞け(Shema)イスラエルよ、神を愛し、隣人を愛しなさい」という言葉です。
基本であるこの愛の掟と直接につながっている掟をより厳しくして、直接に愛とつながっていない掟をゆるめるのです。
「山上の説教」にはこの方法を表すいくつかの例があります。例えば、「あなた方が聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛しなさい。(マタイ5:38)」つまり、愛を命令する掟をより強化するのです。
一方、愛と直接にはつながっていない安息日の掟をゆるめるのです。ゆるめるばかりか、安息日が愛と矛盾になっている場合、愛を優先して安息日の大事な掟を超えるのです。
私たちが何かを新しくしようと思う時には、その時までのことを抜本的に白紙撤回にしてから新たなことを決めようとする傾向があるでしょう。確かにそれしかない時もありますが、できるだけイエスのようにしたほうが正解でしょう。
「Withコロナ」という新しい生活様式を定めたいと思っている私たちも、今までの正しい根本を引き出して、行いでそれを生かして、その根本を基準にして、変わりつつある状況の中で新しい生き方をしなやかに作り出しましょう。
信仰生活において、また人間関係においても、勉強、仕事、趣味などにおいても、しきたりの単調な繰り返しによって「塩の効き目」がだんだん擦れてきて、ほとんど失われることがあります。これは「慣れ」という怖い状態です。
慣れと言っても習慣を繰り返して上手になるという良い意味の慣れもあれば、単調で無関心な繰り返しによって感動が薄くなるという悪い意味の慣れもあります。初めころのピリッとするところが弱くなり、受ける感銘は次第に感じられなくなるという悪い意味の慣れなのです。
この状態を乗り越えるのは簡単ではありません。「その塩は何によって塩味がつけられよう。」
この問題の理論的な解決への糸口は、「初心、前進」だと思います。初心に帰って前進するということです。
『初心忘るべからず。』最初は心で深く感じた真理を常に引き起こして初心に帰るのです。同じ感情は戻らないかもしれませんが、自分が納得した真理を「慣れ」から引き出して、初心に変えることができるのです。自然に下がるギターの弦を何回もあげると同じように、初心に何度も帰らなければならないのです。
そして、前進するのです。慣れの状態に妥協しないで、ほんの少しずつでもいいから進歩するのです。根本に心と意識を入れ込んで、根本を改善するのです。
新型コロナウイルスが定めた新しい生活様式を機会に新鮮味を要求して、イエスが「あなた方は地の塩である」と喜んで言えることを願い求めましょう。
貧しい人、悲しむ人、「against コロナ」の自粛で困っている人、「withコロナ」の不安で悩み続けそうな人が多いのです。イエスは、綺麗な心の人は悩んでいても「幸いである」という明るい真実を知らせてくださいます。
綺麗な心の者とは、威張らないで神の愛と人間の愛を謙遜に必要とする人です。
綺麗な心の者とは、人の立場からも物事を見て、柔和で哀れみ深くなる人です。
綺麗な心の者とは、悩んでいる人を心に受け入れ、正義に飢え渇いて平等と平和をもたらす人です。
綺麗な心の者とは、自分の義務をきちんと果たして、自分自身と自分のすべてを神に委ねて、皆に対して良い意味でいい人であるという人です。
悩むときには綺麗な心で悩んで、喜ぶときには綺麗な心で喜んで、奥深いところに幸いな人になることを願い求めましょう。
福音のイエスとマリアとヨセフの次に私が好きな人は、このやもめです。
賽銭箱には献金受けの口がいろいろありました。隣に立ち入っていた祭司は、献金を受け取ってその額と目的を大きな声で発表してから、適切な口に入れていたのです。それ故、人々に話しながら「賽銭箱の向かいに座っていたイエスには」祭司の声が聞こえていたわけです。
「大勢の金持ちがたくさん入れていた。」「三万円」とか「五万円」とか聞いていた群衆はしきりに歓声をあげていました。しかし、イエスはそれをどうとも思わなかったのです。なぜなら、それは褒められるために「有り余る中から」の大金だったからです。
「ところが、一人の貧しい未亡人が来て」たった二十円をひそかに入れました。その報告を聞いたイエスは目を上げて彼女を見つめたでしょう。その時のイエスの表情と視線は特別に美しかったでしょう。「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中でだれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」
褒められないだろうとわかって、夕食のためには何もないだろうと知っていた彼女は、目立たないで全部入れたのです。
恥ずかしいことに、もし私はその時その場にいたならば、多分やもめを無視して、やはり五万円の人に近寄って、微笑んで名刺を交換してみたでしょう。
イエスの価値観は立派です。イザヤが書いたように「主は言われる。私の道はあなた方の道と異なり、私の考えはあなた方の考えと異なる。」
イエスは額より心を評価します。いくら入れたかというよりも入れてからいくら残るかということに注目するのです。
すべてを与える貧しいやもめと、また心を深く見つめるイエスを想像しますと心が静かに洗われるのです。
この寛大さのある人に私もなりたい、この価値観のあるイエスに私もなりたいと思います。
「三位一体は、三本の枝のある一本の木のようです」という説明を聞と子供は、「わかった」と言います。
ところが、「左の枝は木です。真ん中の枝も木です。右の枝も木です。では、何本の木がありますか」と聞かれると子供は、「三本」と迷わずに言い張ります。「違う、一本の木だけだ」と聞くと子供も大人も、「えっ!!!」と叫びます。この「えっ!!!」とは、真の神秘との出会いを物語るのです。
「三位」というのは、御父も御子も聖霊も Persona(方)だという意味です。Persona とは理性と自由のある独立した存在です。イエスは、御父とご自分はもちろん、聖霊も「方」だと何回も言われました。
しかし、神は「三位」であるのに唯一の神です。「聞け、イスラエルよ、私たちの神である主は唯一の主である。(マルコ12-29)」
初代教会は、この矛盾したような教えをそのままに受け入れましたし、昔からの神学者たちはこの教えを整理して一生懸命に説明してきました。しかし、結局その説明を聞く人は依然として「えっ!!!」と繰り返すだけです。
ところで、神様と話す時の私は、「三位」より「一体」を中心に考えます。「三位一体」の神秘を信じて宣言しますけれども、やはり、「三本の枝のある一本の木」という神とはより話しやすいのです。三つの側面のある唯一の神を区別なしに感じます。その時その時、抱きしめてくださる温かさという唯一の神、共に歩いてくださる友という唯一の神、心の中から光と喜びと元気を抱かせてくださる唯一の神と話します。
なお、この神秘の最も好きなところは、三位の愛における一体、一体による命という一致です。夫婦にも家庭にも仲間にも会社にも当てはまる一体です。一人一人のメンバーがそれぞれの個性と役目を守った上で、尚かつ、愛によって一体となるという状態です。
この愛における一体からは命が生まれます。
今の私たちは、「Withコロナ」の時代を生き抜いていかなければならないのです。そのためには、互いに異なった人格を認め合って、愛における一体を深めて、その一体から生まれる新たな命の成長を願い求めましょう。
聖霊という方は「私のものを受けてあなた方に告げる。」
三位一体の本質はどうしても理解できない神秘です。しかし、愛をこめて導いてくださる御父と御子と聖霊の働き方は少し理解できる神秘です。
この事について、次の比喩に例えて考えました。
生まれる人がいただく命をパソコンだとします。
そのパソコンのメーカーは、命の源である御父です。メーカーはパソコンを梱包した箱の中に取り扱い説明書(マニュアル)を入れます。この説明書を理解し、従う人にとってはパソコンが非常に便利ですが、この説明書が理解できず、従わなければ起動できず、故障するでしょう。
ここでは、マニュアルが御子イエス・キリストです。生きている説明書になるイエス自身です。イエスのように命を使う人は幸せになるし、周りの人を幸せにするでしょう。キリストの生き方から離れる人は不幸になるし周りの人を不幸にするでしょう。
ところで、聖霊には出番がないのでしょうか?
聖霊にも大事な役目があります。例えば、難しい専門用語だらけの説明書がよく分からない人が、5人にメールを送りたいとします。簡単なことだろうと分かっていますし、どこかを1クリックだけで十分だと知っているけれども、どこをクリックすべきかが分からないため、機械に椅子でも投げたくなるほどイライラしているのです。その時、ネットに詳しい友達が隣に座って、マニュアルを優しく説明して、その内容を自分の具体的な望みに合わせてくれると簡単にメールを送ることができました。その友達がまさに聖霊です。
要するに、聖霊は21世紀前にイエスがなさったこととおっしゃったことを現代の自分の具体的な状況に合わせてくださるわけです。「私のものを受けてあなた方に告げる」聖霊です。
命をくださった御父に感謝して、真理への道になってくださるイエスについて、聖霊の光が照らしてくださる道を喜んで歩き続ける恵みを願い求めましょう。
イエスを殺したかった人々は、まずイエスの評判を公に落とそうと思っていました。その後は逮捕して死刑にするという計画を立てていました。
その人たちは「イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか否か」と聞きました。
集まっていた大勢の中には、税金を納めることに絶対反対の人がいましたし、また、やむを得ないので賛成している人もいました。イエスは板挟みにされたわけです。
そこで、さすがに頭も良いイエスは、直接に返事をしないで貴重なことを教えられました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」驚き入った彼らは、ひんしゅくを買って黙り込んで帰ったのです。
「神のものは神に返しなさい。」これは、イエスがいつも教えていたことです。
ところが、「神のもの」とは一体何でしょうか。これに関しては色々な意見があります。
M.L.キング牧師は、黒人の人権のために非暴力的な運動を始めました。それに対しては、「牧師であるあなたは『神のものである』祈りや礼拝に絞って活動してください。政治的な運動は政治家たちや一般市民に任せてください」という厳しい批判を浴びるようになりました。
しかし、キング牧師は「人権はまさに神のものです。」と答えて、その運動を続けたのです。
まさしくその通りです。「神のもの」とは結局、聖書の「聞け(Shema)イスラエル!神を愛し、隣人を愛しなさい。」これはすべての掟の根本です。キング牧師の運動の目的は「神のもの」である「隣人愛」を実現するということでした。不平等で悩んでいる人に対してあまり興味のない者はキング牧師の方針に反対するでしょう。
私たちは「神のもの」を誠実に求めて、困っている人の立場に立って人が平等に扱われることを、行いをもって願い求めましょう。
この比喩を考えました。「泉」は御父です。存在と命と愛の源である御父は、だれも見ることのできない非常に高い山の奥にある泉です。
その泉から私たちの谷まで流れてくる「川」は、御子イエス・キリストです。御父を人間に表す御子です。この川の水を飲む人に、目には見えない泉のすばらしさを感じさせるキリストです。
私たちの手を取って川まで連れてくださるのは、母マリアです。
聖霊は、私たちの内から渇きを感じさせて、その冷たい水のおいしさを味わわせてくださる神です。公害で汚れた川や海水や水溜りの水との違いはもちろん、他の川の綺麗な水との区別もはっきりさせてくださる神です。聖霊は、その川から飲んだ人のために水を消化させるのです。その水を永遠の命に変えてくださるのです。
聖霊はまた、川のほとりの草と花と木の香りを覚えさせてくださるのです。流れのささやきにもなじませてくださるのです。
私たちはこの川を沿って、その水を飲みながら人生の旅を歩き続けます。
ところが、道が川から離れる時もあれば、自分はわざと川から遠ざかる時もあります。その時、迷子になった私たちは一旦立ち止って、母マリアの静かな呼びかけに心の耳を傾けて、川の香りと囁きを感じ分けてイエスに戻るのです。
なお、このように人生の道を歩いている自分は、いつか旅の終点である「海」にたどり着くでしょう。泉である神は海にもなっておられるのです。
その時、川に入ってイエスのようにイエスと共に死んで、イエスのようにイエスと共に流れて海に入るのです。
小さな一滴になっている自分は神に変わるのではなく、神に抱きしめられて生きるのです。愛しい方々と一緒に永遠の今を喜んで生きるのです。
「主人公」という表現を使ってみれば、旧約聖書の主人公はヤハベで、福音の主人公はイエス・キリストで、「使徒たちの宣教」の主人公は聖霊だと言うことができます。
洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスは、前よりもはっきりと聖霊に満たされて聖霊に導かれて生きるようになりました。
聖霊降臨の時、聖霊に満たされた弟子たちは前よりも聖霊に導かれて生きるようになりました。
ところで、「ペンテコステ」は「聖霊降臨」を意味する言葉ではありません。「ペンテ」は「五」という意味です。ペンテコステは、農業関係の有名な祭りであった「五旬祭(ごじゅんさい)です。(出エジプト34:22)では、ペンテコステの日には弟子たちが公に聖霊を受けたわけです。
ルカは、弟子たちのこの神秘的で強烈な体験をアニメの形で「使徒たちの宣教(2:1‐11)」に書きました。その個所には、御父とイエスが送ってくださる聖霊は、「炎のような舌が一人一人の上にとどまった」と書いてあります。その意味で、聖霊の象徴は「火」となったわけです。「霊の火を消してはいけません(Ⅰテサロニケ5:19)」とパウロは勧めました。
なお、「火」の意味は次のようです。
「火」は光です。真理への道を照らしてくださる光です。
「火」は炎熱です。愛の火を燃やしてくださる熱意です。
「火」は温かさです。心を温めて慈しみを感じさせてくださる温かさです。
聖霊をいただくために「弟子たちは、復活したイエスの母マリアと共に心を合わせて、ひたすら祈っていた」と書いてあります。
パンデミックの試練を受けている私たちも、母マリアと共にひたすら祈りながら、
「聖霊よ、来てください!」と願い求めましょう。
ペトロは、皆よりもイエスを愛していると威張っていました。これは自信過剰です。
怖くなってイエスを三度も否定したペトロは、極端から極端へ走って落ち込んでしまいました。これは自身喪失です。
裏切られたイエスは、恨まないで、ペトロを赦して、彼が失敗したそのところで成功をさせようと思って、三度も「はい、愛しています」と言わせました。謙遜に満ちた自信を感じさせたのです。これは謙虚な自信なのです。
イエスの愛を感じたペトロは、謙虚な自信を抱いて死ぬまでキリストに従ったのです。
私たちも友なるイエスにこの謙虚な自信を願い求めながら、死ぬまでキリストに従いましょう。
「わたしに対する父の愛が彼らの内にあるので、彼らが完全に一つになります。」
オーケストラのように「一つになる」のです。相互に異なる沢山の楽器が一つの曲を演奏するオーケストラのように「一つになる」わけです。
「完全に一つになる」とは、性格、意見、価値観、その時の精神状態などによってバラエティーに富んでいる団体のメンバーが、オーケストラの調和のように「一つになる」のです。
この難しい一致ができるための最良の方法はこれだと思います。
グループの各自が、謙遜、尊敬、協力的な精神を心から引き出して、共通の目的に取り組むという方法です。
要するに、自分の意見が絶対的な真理ではないと謙遜に認めるのです。
人の意見を承知しなくてもその人を尊敬するのです。
協力の姿勢でプロジェクトに取り組むのです。
目的を達成することを真剣に求めるのです。皆の目的への意識はしっかりしていれば、一致が深まるでしょう。それとは反対に、各メンバーが全体の目的を見失って自分自身の利益を求めるようになったら、分裂は避けられないでしょう。
なお、この謙遜と尊敬と協力の精神と目的を達成する熱意を引き出せるのは、「わたしたちの内におられる神の愛」なのです。その愛を感じて行いをもって実現しようと思えば、家庭にも仲間にも仕事にもどこにも皆と「完全に一つになる」ことができるでしょう。
イエスが教えてくださったように、「永遠の命とは、神を知ることです。」
「知る」という動詞の意味は、神についていろいろなことを学んだという知識よりも神を心で知ることです。神を愛することです。神の言葉を聞いてそれを行うことです。
このように神を愛する人は、この世の永遠の命によって生きるようになるのです。即ち、この世の中では、神と愛し合って神と仲良く生きる、人間と愛し合って人間と仲良く生きる、自然と愛し合って自然と仲良く生きるという永遠の命を喜んで生きるようになるのです。
また、死んでからこそ、まったく違った形では永遠の今を完璧に生きることができるでしょう。
助言を頼んでいない人を戒めるのは、高慢で無駄なことです。
善い人からの助言を受け入れないのは、高慢でもったいないことです。
向上心のある人は謙遜に助言を受け入れて、聖霊に知恵を願いながらいただいた助言を見分けるのです。
この快い約束を感謝しながら認識しましょう。
緊急事態宣言が解除されても不安は残ります。友なるイエスと共にいれば、自信と柔軟性が強まるでしょう。
これからの私たちはいろいろな経験をするでしょう。A.マチャドの詩ですが、「ワインのある所でワインを飲んで、ワインのない所で冷たい水を飲む」これがいい!
しかし、「友なるイエスよ、いつも一緒に飲みましょうね。」
“暫くでございます。
上石神井の修道院にて年間の黙想を終えて、帰ってきました。”
この部屋で首を長くして皆さんを待っています!
…聖書講座の再開を待つアルぺホールにて…
「あなたがたは世に属していない。私はあなたがたを世から選び出した。」この言葉の意味は決して、私たちが世より立派なので世の上に居るということではありません。
世の中に居る私たちの価値観は世の価値観とは違うという意味です。預言者が書いたように、「私の考えはあなた方の考えとは異なり、私の道はあなた方の道とは異なると主は言われえる(イザヤ55:8)」
エゴイズムと高慢が望む価値観ではなく、心が望む心を満たす価値観に従って生きれば、「あなたがたは世に属しない」ことになるわけです。
心が望む価値観とは、お金に依存しない、お金と肩書を基準にして人の価値を定めないという考え方です。不正行為してもお金を手に入れようとはしない価値判断です。それほど必要ではない財産や評判を獲得するために必要以上に働き過ぎるよりも、健康と家族を大切にするという価値観です。お金のために心を裏切らない価値基準です。
また、手に入れたお金と評判を自分と自分の家族のためだけではなく、困っている人が助かるためにもそのお金を使うという価値観です。自分のものを分かち合って人が助かるために人に仕える者は、「世から選び出されている」人なのです。
ところで、人に仕える場合、その人が本当に助かるか否かをよく見抜かなければ、自分の思いやりはお節介にも自己満足にもなり得るのです。
また、あまり困っていない人は弱さを見せかけて、悪いことをするためにあなたの親切を使うこともあります。これを描くおかしな笑い話があります。あるお婆さんは信号待ちをしていた若い女性に、「恐れ入りますが、道を渡りたいのですけど、手を貸して下さいますか」と聞きました。女性が「もちろん喜んでいたしますが、今は赤になっていますので少し待ちましょう」と言ったら、お婆さんは「青になっていたら一人で渡るわよ」と答えました。つまり、いけないことをするためにあなたのやさしさを利用する人もいます。このお婆さんは本音を出したのでまだ悪くないほうですが、上手な猫かぶりも多いからくれぐれもご注意願います。
何しろ、イエスらしい価値観に従って生きるという世を造りましょう。
この箇所をゆっくりと読んでイエスとの友情を思い巡らしましょう。
なぜイエスが私たちを「友と呼ぶ」でしょうか。
それは、イエスが友である私たちのために「命をすてる」からです。
また、イエスが「父から聞いたことをすべて私たちに知らせた」からです。
そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい、休ませてあげよう(マタイ11:28)」という友情に呼びかけてくださるからです。イエスは私たちと一緒に居たいのですし、私たちの悩みと喜びと疲れを聞いて、共に悩んで一緒に喜んで休ませたいと思っておられるからです。
この意味でイエスが私たちの友なのです。
イエスは逆にご自分が望んでおられる友情を教えてくださいます。「私の命じること(愛の掟)を行うならば、あなた方は私の友である。」要するに、「互いに愛し合いなさい」という掟を行う人は、友情に呼びかけてくださるイエスの友達になることができます。困っている人と自分の物事を分かち合って人に仕える時、「あなた方がその人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」という言葉を思い出して、共におられるイエスとの友情を実感することができるのです。
イエスのたくさんの話を聴いて、こちらの話を聴きたいイエスにすべてを話していれば、イエスとの友情を感じることができます。
祈り、黙想、秘跡、聖体訪問などをしている時、イエスと共にいることをゆっくりと味わうことができます。
電車に乗っている時、簡単な仕事をしている時、散歩している時、つまり、いつでもどこでも友なるイエスと一緒に居ることをちらりとでも味わうことができるのです。
新型コロナウイルスの試練を機会に、イエスと共に皆が信用できる友達だという理想に向かって、少しずつ近寄ることを願い求めましょう。
旅の道、道の友なるイエスのように、イエスと共に生きるのです。
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。(ヨハネ15:12‐17)」
律法には細かい掟がやたらと多いのですが、イエスの掟はたった一つだけです。
言うまでもなく、この掟だけで十分ではありません。交通規則がなければ、愛の掟だけでは衝突だらけのパニック状態になります。
しかし、この愛の掟はすべての掟の根本になり、他の規則の目的と意味を明らかにするのです。先日、ドイツの首相アンゲラ・メルケルが言われたように、新型コロナウイルスを乗り越えるために、距離とマスクの他に最も大切なのは、人に対する尊敬です。これは根本です。
愛の掟は規則に柔軟性と原動力を流し込むのです。例えば、本当のマナーは決して、国によって時代によって異なる細かい習慣だけではありません。あらゆるマナーの根本目的は、周りの人が快く居られる雰囲気を保つということでしょう。この根本をつかんでいれば、どんな環境のマナーにも自分をしなやかに合わせることができるでしょう。それとは反対にこの根本を身につけていなければ、教わった通りにたくさんのマナーを規律正しく守っていても大事な時にはついボロが出るかもしれません。
私の先輩がピカピカの修練者だった時、一ヶ月間の大黙想の終わり頃、お爺さんの霊的指導者の承認を得ようと思って、紙一枚に書いた二十三もの細かい決心を示しました。それを読んだお爺さんは、赤い鉛筆を取ってその決心をゆっくりと消しながら、「ただいい人でありなさい」と勧めました。良い意味でいい人であることも根本です。愛の掟を行って得られる根本です。
そう言えば、このお爺さんは他の時にもこの面白いことを勧めました。落ち込んでいた若い修道者が来て、「私は勉強ができませんし、人と喧嘩をしましたし、目上に怒られましたし、私は何の役にも立たないだめな人です。私はまさにロバです。」と言いました。(スペインにはなぜかロバが頭の悪い動物だとされています。)それを聞いたお爺さんは、「ロバである自分を神様に委ねなさい。サムソンが(士師記15:15)ロバの顎骨(あごぼね)だけで千人の敵を打ったではないか。神様は全部のロバでもっと偉大なことをすることができるでしょう」と答えました。それを聞いた若者は自信を取り戻して、あれからずっと立派に活躍していました。
とにかく、愛の掟を心に受け入れ行いで実現しながら、良い意味でいい人になって喜んで生きることを願い求めましょう。
「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。(ヨハネ15:1‐8)」
これからの解説を理解するためには、まず、この箇所を読んでおいた方が良いでしょう。
預言者たちはぶどう園の比喩をたびたび使います。
エレミヤにとっては、ぶどう園がイスラエルです。(エレミヤ2:21)
イザヤはぶどう園に対する神の愛を述べます。(イザヤ5:1)
イエスは、この比喩を使ってご自分と人間とのつながりとそのつながりの結果を説明します。
この話のキーワードは、「つながる」と「実を結ぶ」という二つの動詞です。イエスにつながっている人は実を結ぶということです。
しかし、イエスにつながっているのはどういうことでしょうか。それは、イエスの言葉を心に受け入れ、行いで実現するということです。洗礼と御聖体という秘跡は、イエスとのつながりを実感させて強めるのです。秘跡は、イエスの言葉を守って自分をイエスにつなげるために貴重な手段となるのです。けれども、秘跡を受けていてもイエスの言葉を守らない信者もいれば、秘跡を受けていなくてもイエスの言葉を行っている人もいるのです。
イエスの言葉とは、「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」という「愛の掟」です。
なお、この言葉を行って実を結ぶ枝を「いよいよ豊かに実を結ぶように、父が手入れをなさる。つながっていても実を結ばない枝を父が取り除かれる。」
結局、問題は実を結ぶか否かということです。この話の中心であり目的であるのは、実なのです。
それでは、実を結ぶことは一体どういうことでしょうか。実とは、愛の結果です。愛の行いがもたらす実りです。愛される人が感じる深い喜びです。愛されている人の心が望み心を満たす深い喜びは実なのです。この実は人の救いになるのです。
皆と大切にし合って、イエスにつながって実を結びましょう。実を結ぶので御父に手入れをしていただいて、より豊かに実を結ぶ枝になることを願い求めましょう。
大切な方に亡くなられるのは非常に悲しいことです。
イエスは、死ぬ少し前に弟子たちに言われました。「私は去って行くが私の平和をあなた方に残す。また、戻ってくる。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。(ヨハネ14:27‐31)」
天国にいる私たちの愛しい方は同じ言葉を言ってくださいます。「平和を残します。」決して、過ぎ去った悲しみを忘れかけた時の無関心なのではなく、悩む心に充実した平安を感じさせてくださるのです。
その方は復活したイエスのように今こそ幸せです。
その方は復活したイエスのようにまた私に逢えるのです。
その方は、聖パウロの言葉を使ってメッセージを送ってくださいます。「いつも喜んでいなさい。(Iテサロニケ5:16‐22)」
しかし、喜んでいられることは目的ではなく結果なのです。「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。聖霊の火を消してはいけません。」自分がこのようにしたら、その結果としてはいつも喜んでいられるでしょう。
このメッセージを心に受け入れ行いで実現すれば、寂しさの中の平和と喜びを感じることができるでしょう。
イエスは御父を紹介して下さいました。紹介と言っても、「神の生まれた日と現在の年齢は永遠です」とか「出身地は無限のここです」とか「職業は創造者です」とかいうような紹介はあまりなさらなかったのです。
むしろ、「私を見た者は、父を見たのだ」というわかりやすい一言で、永遠の神を紹介してくださいました。
ですから、弟子の足を洗っているイエスを見れば、神の有様を見ることになるのです。病人を癒したり、ハンセン病を患っている人を清めたり、貧しい人に福音を述べたり、子供たちを抱きしめたり、異邦人を立てたり、罪人を受け入れたりしているイエスを見る者は、御父を見るわけです。
飼い葉桶に生まれて、枕にするところのないイエスを見る者は、全能の神を見るのです。
ムチ打ちの拷問にかけられて、十字架につけられて死んだイエスを見る者は、神秘的な神の本来の姿を明らかに見ることになります。
神殿の垂れ幕は、人間の見ることができない神を隠していました。イエスが死なれた時「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。(ルカ23:45)」要するに、十字架で死ぬほど愛するイエスを見れば、幕に隠されていた神を直接に見ることになったわけです。
「神は愛である。(Iヨハネ4:9)」これは、神の特色を最大限に出す言葉です。
イエス・キリストを深く見る人は、「愛である神」を見ることになります。
イエスはただ一緒にいてくださるだけではなく、共に悩んで、共に喜んで、共に働いてくださるのです。
今の私たちには、イエスと共に取り組むべき二つの課題があります。
一つ目の課題は、今のパンデミックを乗り切るということです。忍耐と反省と連帯感をもってこの「地震」を乗り越えるように頑張るという課題です。
二つ目の課題は、この「地震」の後の経済的な「津波」を切り抜けることです。その時に、いつものように最も困る人たちは、貧しい人、無職になる人、つまり弱い立場に置かれている人です。その方々こそ特別に考慮すべきです。耳のいい人にとって聞こえにくい小さな声が、耳の遠い人にとっては全く聞こえない声になるのです。目に見えている「経済的な津波」を受ける一般市民はもっと質素に暮らすことになるでしょうが、貧しい人は食べることができなくなるでしょう。
人を平等に扱うとは、湖のように、深いところにもっと水を入れて全体を平らにするということです。友情とは、弱い友達のペースに合わせて皆で一緒に山に登ることです。
ところが、私たちは自分さえ良ければという生き方に慣れ過ぎているので、自分の利益に影響を及ぼさないことには興味がないのです。例えば、マスコミは、新型コロナウイルスの状態や犠牲者数を頻繁に詳しく教えてくれます。それとは反対に、世界と日本の栄養不足の犠牲者数などは、昔からほとんど扱われないのです。
この不平等の原因は、マスコミよりも私たち自身です。マスコミは、ただ私たちの興味に合わせて私たちが知りたいことを知らせてくれるだけです。
イエスのように、イエスと共に、今から真剣にこの二つの課題に取り組み始めましょう。
一緒にいたい気持ちは愛の証になります。私たちと一緒にいたいことを何回も言われたイエスは、愛してくださる神秘を明確に示されるのです。いくつかの言葉を思い出しましょう。
「言(ことば・御子)は肉となって、私たちの間に宿られた。(ヨハネ1:14)」人間になるほど一緒になりたかったわけです。しかも、一旦、人間になって軽く挨拶してからすぐ天国へお帰りになるつもりなのではなく、ずっと一緒に住むことを望んで、私たちの間でテントを張ってゆっくりと座られたのです。「永遠にあなた方と共にいる。(ヨハネ14:16)」「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。(マタイ28:20)」
共にいるだけではなく、私たちの内におられ、私たちも彼の内にいるのです。「あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいる。」
私たちが死んでからずっと一緒にいたいということも言われました。「私が行って、あなた方のために場所を用意したら、帰ってきてあなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいるところにあなた方もいることになる。(ヨハネ14:4)」
イエスは、一緒にいたいと頻繁に打ち明けて、ご自分の愛を明らかにしてくださいました。私たちもイエスと一緒になりたい望みを引き起こしましょう。
一緒にいる実感がわくためには、祈りと愛が最も適当な手段でしょう。
祈る時、イエスと共にいて愛し合っている認識は深まります。
私たちの愛の行いを見るイエスは、「この人にしたのは私にしてくれたことなのだ(マタイ25:40)」と言われて、その愛の行いを喜んで受け入れるのです。
イエスの愛をしっかりと信じて、強く感じて、深く感謝して素直に頂きましょう。
「神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。」
御父は嘘を言われない誠実な方です。約束を守られる真実な方です。悩む人を見捨てないでそのそばに悩まれる忠実な方です。
私たちは、存在としてばかりでなく、生き方としても神の子になりたければ、大きな嘘を言わない真実な人になり、重大な約束を破らない誠実な人になり、悩む友のそばにいる忠実な友になりましょう。
神に対して誠実、自分に対して誠実、自分の誠実さを信じる人々に対して誠実な人になって、主のまことを代々に告げながら誠実な御父の子になりましょう。
また、慈しみ深い御父のようになりましょう。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。(マタイ5:4-5)」
私たちも、まことや正しさと同時に、慈しみと心の温かさを感じる人になりましょう。威張らないで、自分を受け入れない人に対して冷たい態度をとらないことにしましょう。人の良いところに感銘を受けて、人の成功を喜ぶような神の子になりましょう。
勉強か、仕事か、スポーツが良くできない人を批判しないで、悪く言わないで、見下さないようにしましょう。むしろ、その人が自分なりに精一杯頑張って自分にはできるだけのことをしているという事実を理解して、その人を尊敬して応援しましょう。
「私は、世を裁くためではなく、世を救うために来た。私の語った言葉が、終りの日にその人を裁く。」
「終わりの日」は、アニメの形で、マタイ25:31-46に描かれる最後の審判です。
「私の語った言葉」とは、困っている人に食べさせる、飲ませる、宿を貸す、服を着せる、見舞いをするように、という言葉です。つまり、あなたのお金、食べ物、時間、すべてを困っている人と分かち合いなさいという言葉です。
この言葉を守った人は審判の日に右側に座り、この言葉を守らなかった人は左側に座るのです。裁いて席を指定するのがイエス・キリストではなく、一人一人がその生き方で買ってきた券なのです。
イエス自身が時間と熱意を使ったのは、人を裁くためではなく人を救うためでした。
私たちも、イエスのようにイエスと共に人を裁かないで、人の救いを願い求めましょう。人の行いを罪に定めないで、人の一時的な動作をその人の人格に結び付けないで、人の怪しいと思われる行いをなるべく良いほうに解釈しましょう。
それ上、人に深い喜びを感じさせましょう。深い喜びとは、その人の心が望み、心を満たす喜びです。人が食べ物か飲み物か見舞いを望む時があります。理解と友情を期待する時もあります。では、心を込めて喜んでそれを差し上げれば、その人は神にも人間にも愛されていることを感じるでしょう。この深い喜びは救いに繋がります。この喜びを感じる人は、神からの愛と人間からの愛を体験して救われることになるのです。
愛の行いで人に深い喜びを感じさせて、人を救うというイエスのミッションに協力しましょう。
喜んで。それは、「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び」になるからです。(詩篇67:2)
「九十九匹を野原に残して、見失った一匹の羊を見つけ出すまで探し回る。」この羊飼いのようになりましょう。時によって羊飼いについて行く羊になり、時によって羊飼いに担いで頂く羊になる私たちは、また、時によって見失った羊を探す羊飼いになりましょう。
ところが、物事の価値を定めるには数を基準にしがちである私たちは、たった一匹を無視することになるでしょう。星の王子様が言ったように、大人は、頭が悪くて、物事の数しか何もわかっていないのです。子供が「楽しかった。美しかった。」と言うと、大人は必ず「何人だったか、いくらだったか」というようなつまらない質問をするばかりです。
今日は子供の日です。子供の知恵がよく分かっておられたイエスにとっては、そのたった一匹の羊がすべてになっていました。
また、高慢な自分たちは人を必要としないのです。見失った一匹の他は九十九匹をもっているので、大した損をしていないと思い込むのです。間に合っています。高慢な私たちには他の友だちもいるし、新しい友だちを作ろうと思えば簡単にできるので、離れかけた一人の友だちと話し合って引き留めようとする忍耐と興味はないのです。「さようなら。」相手は寂しくなるかもしれないが、私は全然。間に合っているという冷たい高慢は、友情とあらゆる人間関係の大きな妨げになっています。
イエスは、その一匹をちょっと探してみただけではなく、見つけ出すまで方々探し回ったのです。その一匹を見つからなければ家に戻らないという熱心な羊飼いです。
この熱心な友情を感じて互いに探し合いましょう。
ところで、今の新型コロナウイルスのために長い自粛モードを続けている私たちは、感染拡大が終わってからも、一人で居るという狭い「島」での一人暮らしに慣れ過ぎて、人を必要しない「島人間」になり得るのです。人と付き合う今の空間的な距離は、これからの精神的な距離感に繋がるかもしれません。
人を必要とする愛と謙遜を心の倉から引き出しましょう。
肉体的にも空間的にも友だちに逢えないこの自粛期間を、友情の喜びと有難さを深く感じる機会にしましょう。
特に、こちらの高慢のせいで離れ始めた友だちを引き留めて、この友人を失ったらすべてを失う気持ちを引き起こしましょう。その人を見つけ出すまで探し続けて、仲直りして前よりも仲良くなりましょう。
「谷川の水を求めて、あえぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う。(詩篇42:3)」実に素晴らしい言葉です。
不安定な状況に置かれて、当てもなくあえぎ声でさまよって谷川の水を慕う鹿のように、私たちも神を慕い求めているのです。
実は、神がすべてを超越する神秘なので、私たちは果たして何を体験しようと慕い求めているでしょうか。厳密に言えば、神は直接体験の対象になりません。人間の体験を超える存在です。私たちが感じるのは、神への渇望だけなのではないかと思われます。
いずれにせよ、よくわからない神に対する渇きを感じて、神を慕い求めているのです。
慕い求める鹿のようになりましょう。
また、羊のようになりましょう。
神である「言(ことば)」が人間となったので(ヨハネ1:14)、神秘的な神はより分かりやすいイエス・キリストになってくださいました。
イエスは先頭になって行く羊飼いになってくださったのです。イエスが、知っている羊の名前を呼びますので、自分の羊飼いの声を聞き分ける羊は安心してついて行くのです。
羊飼いについて行く羊になりましょう。
或いはまた、囲いから離れて迷ってしまう羊もいます。その時、見つけ出すまで捜し歩いていた羊飼いは、「羊を見つけて喜んで家まで担いでくださる。(ルカ15:5-6)」
羊飼いについて行ったり、羊飼いに担いでいただいたりする羊のようになりましょう。
復活後のイエスは何回も弟子たちに現れました。自分が生きる事実を表すのはその主な目的でした。全く違った様子でまさしく同じイエスが生きるという事実を見せました。生きる自分を表して、弟子たちの信仰と私たちの信仰を強めるという目的でした。「私が生きるので、あなた方も生きることになる。」
イエス・キリストを信じるためには、復活が必要欠くべからざるような条件になります。パウロが書いたように、「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しい。(Iコリント15:17)」
その虚しさには主に二つの理由があります。
一つ目は、イエスが死んだままでいなくなったのなら、イエスは尊敬すべきで立派な人格者に過ぎない方になったでしょう。アジシのフランシスコとか宮沢賢治とかいうような素晴らしい人間だけだったことになるのです。信仰の対象にはならなかったでしょう。
二つ目の理由は、キリストも私たちも復活しないとしたら、神が人間を愛してくださらないことになるということです。なぜかと言いますと、G.マルセルが言ったように、愛するという意味は、「死なないで!」と望むことです。とにかく行かないでいつも一緒に居てくださいという願望が愛なのです。したがって、何でもお出来になる全知全能の神が永遠に生き残っていて、私たちは肉体的に死んでからも、なお全面的になくなることをお許しになったのなら、結局、私たちを愛してくださらないことになったでしょう。
つまり、イエスが復活しなかったならば、イエスが神ではないし、神が私たちを愛してくださらないということになるわけです。
ところが、パウロは「しかし、キリストは復活しました。(Iコリント15:17)」と書いて、揺るぎない信仰を宣言しました。
なお、キリストが生きるばかりでなく、いつまでも一緒に生きるのです。「恐れることはない。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。(マタイ28:20)」
「あなた方が私の内におり、私はあなた方の内に居る。(ヨハネ14:20)」
「私たちはその中に生き、動き、存在するのです。(使徒たちの宣教17:28)」
イエスが生きるという信仰は、安心感、自信、希望、勇気、元気を取り戻します。
パンデミック新型コロナウイルスで悩んでいる世界のために、元気と希望を取り戻す信仰を願い求めましょう。
「悪い人はその悪い倉から悪い物を出す。およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである。」自分が話す良いことと悪いことは、心にあったから溢れ出たのです。なるほど。
「神に従う人の口は知恵を語り、その舌はまことを告げる。神の言葉がいつもその心にある。(詩篇37:30-31」これも有り難い事実です。
ところが、真実を話すことは不便で危ないことになり得ます。イエスは御聖体について良い心から永遠の命の言葉を出した時、良い結果も悪い結果も現れたのです。
悪い結果とは、信じがたいことを聞いた「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」ということです。しっかりしていなかった弟子は離れたのです。暴風で倒れるのは弱い植木なのです。イエスは、御聖体の真実を話す前からよくご存じの結果でした。イエスは人気取りをしないで真実を述べる方です。
一方、良い結果も出ました。シモン・ペトロは言いました。「主よ、私たちは誰の所に行きましょうか(因みに、「あなたをおいて」とは言いません)。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者(メシア)であると、私たちは信じてまた知っています。(ヨハネ6:60-69)」この信仰宣言を聞いて、しっかりしていた弟子たちは自分の信仰をより強めることになったのです。
わたしたちは、人と話す時、なるべく明るくて自信をつける話しを良い倉から出しましょう。すでに心の倉にある良い話が溢れ出ることにしましょう。また、悪いことを見ても、知らん顔して何も言わないほうが賢明な時は多いでしょう。
けれども、厳しいことを言わなければならない時もあります。その場合、相手の立場からもそのことを見て、相手の幸せと成長を求めて、相手の自己弁明を直接に聞いて、よく話し合って、倉から愛をあふれ出るようにして、厳しい真実を話しましょう。
普段、心の倉に良いことが溜まっていれば、その倉から溢れ出る辛い真実は、長い目で見て良い実を結ぶことになるでしょう。
愛の源は御父です。イエスはユダヤ人たちに言われました。「モーセが天からのパンを与えたのではない。御父が天からのパンをお与えになる。」最終的に愛を与えるのは、愛の源である御父です。
神は「アルファとオメガ」です。ギリシア語の辞書に最初に出る文字は「アルファ」で、最後の文字は「オメガ」です。神は出発であり終点であるという意味です。
人生の船が出る港は神です。航海の帰りに船を受け入れる港は神です。
結局、自分が人から頂く愛は、御父から頂く愛なのです。人を愛している自分は、神を愛しているわけです。
要するに、私を愛して下さる人は、意識的に、あるいは無意識的に神からの愛を受け入れて、自分のものにして私を愛して下さるのです。
人を愛している私は、知りながらあるいは知らないうちに、その人を通して神を愛しているのです。
そうかと言っても、神が決して主役や中心になりたがるわけではないのです。また、愛し愛される主体は神だけであり、人間がその愛の手段に過ぎないわけではないのです。人間は神の愛という川の川底だけではなく、流れる川そのものです。
その人を愛しているのはまさに私です。愛して下さるのはまさしくその人です。しかし、最終的に命のパンをお与えになるのは御父です。命の源である御父は、その愛に命を注いで愛を生かしてくださるのです。
この真実の認識は、愛をより純粋なものにし、感謝の気持ちをもっと深めるでしょう。
ところが、実際、愛し合っているとき愛の源を認識しようと思えば、忙しくなって、集中が乱れて、疲れてしらけるのではないでしょうか。
そうならないために、複雑に考えないで、無理やり認識しようと思わないで、ただ深く愛すれば十分でしょう。深く愛して、頂く愛を深く感謝すれば、愛の源である神を潜在的に認識することができるでしょう。
それは、神が物事の最も深いところにおられるので、深く愛する人は神に近寄って神を何となく感じるからです。
「神は光(深さ)の中におられる。深さの中を歩むなら、私たちは互いに結ばれる。(Iヨハネ1:7)」
つまり、私たちが人間と自然を深く愛すれば、自分なりに愛の源を垣間見ることができるし、互いに深く結ばれることになるでしょう。
今のパンデミックが終わってから、この世が前と同じ状態に戻ることは難しいでしょう。自然に変わることがあれば、人間が変えることもあるでしょう。
この際、新型コロナウイルス以前の状態よりも、居心地の良い世界を目指しましょう。もっと公平で人間らしい生活様式に変えることにしましょう。
しかし、この危機は人間のそもそも良いところと悪いところを強めるでしょう。
人間の連帯感と同時に、利己心をも強めるでしょう。互いの信頼感と同時に不信感をも深めるでしょう。
要するに、緊急事態宣言に従って長く自粛している私たちが、今まで必要かくべからざると思っていたいくつかの要素は、結局なくてもいいような贅沢だとわかるでしょう。もっと質素な暮らしをして人生のささやかな喜びを深く味わって「嬉しい!」と言える人になるでしょう。そのように生きていれば、悩む人の立場から物事を見て、人の苦しみに向かって心の目が若干開かれるでしょう。もう少し控えめな生活を送っていれば、人の苦しみがわかって連帯責任が深まるでしょう。これから弱くなる経済状態によって相変わらずの犠牲者は貧しい人でしょう。世界に文字通りに食べられなくなる人はますます増えるでしょう。この事実を深く見て、分かち合いの精神と連帯意識が強まるでしょう。
その反面、長く家に閉じこもっている私たちは、人を必要としない自己中心的な人間になり得るのです。しかも、自分が自分を守らなければ誰も守ってくれないと心配して、人のことを考えないようなエゴイストになり得るのです。
また、感染を恐れて人を疑うという人間不信は、これからも習慣になるかもしれません。今や、命懸けで感染者を世話している医者や看護師たちなどが怪しげな人間だというレッテルを張る人がいます。こんな許せないコロハラが行われています。
ですから、自己中心と不信感を弱めて、連帯感と信頼感を深めることを願い求めましょう。
イエスは言われました。「あなた方がわたしを探しているのは、パンを食べて満腹したからだ。」
ご利益があれば神と宗教を求めるけれども、ご利益がなければ神と宗教なんて要らないと考える人は多いでしょう。
便利である友達を大切にし、便利でなくなった友達を忘れる人は少なくないでしょう。
人を愛しているつもりですが、本当は利用しているだけだという事実に気づかない人がいるでしょう。愛と利己心との違いは微妙な時もあります。
純粋な愛は人を利用するという振る舞いを清めます。仲良しの夫婦は互いに利用し合っていますが、喜んで相手に役立ちたいのです。
人を愛すれば、人が必要になるのです。私にとって便利で必要であるこの人を大切にするというよりも、私がこの人を愛しているからこそ、この人が私にとって必要になったということです。
本当の信仰と純粋な愛は見返りを求めないのです。愛すること自体、一緒に居られること自体は見返りになっているのです。
実は、本物である愛でさえ報いを少し期待します。しかし、その褒美を目的にも条件にもしないで、ちょっぴり期待するだけです。褒美は来なければちょっと寂しいけれども、自分が似たような状況に置かれたら、また、似たようなことをするつもりだという意味の期待です。
今のわたしたちは、新型コロナウイルスにうつらない、うつさないためにはマスクをします。このパンデミックが終わってからも、互いに守り合うために精神的なマスクをし続けたほうが良いでしょう。
ただし、心のマスクは要りません。
「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたと知り、『渇く』と言われた。」
「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
要するに、イエスの「渇く」とは、渇望するという意味です。十字架のイエスは、人間が神を愛し、人を大切にするという救いを渇望しておられました。
一方、「永遠の命の水を飲む人は渇かない」とは、その水を飲む人がそれだけで満足するという意味です。永遠の命とは、神を愛し人を大切にするという生き方です。この水を飲む人はそれだけで十分満たされるということです。
まさに聖イグナチオが願う恵みです。「私にあなたの愛と恵み(grace、gracia)を与えてください。私はそれだけで満たされます。それ以上何も望みません。」
ところが、私たちは果たして、イエスのように「神を愛し、人を大切にする」という生き方に渇くと言えるでしょうか。実際には、お金と出世に渇くのではないでしょうか。
また、私たちは一体、永遠の命という水では満足するでしょうか。むしろ、良い暮らしと良い評判に渇望しているのではないでしょうか。
つまり、私たちの正しい渇望は弱い。強い渇望は正しくないわけです。
それでは、どうすれば弱い渇望を強めて、正しくない渇望を正すことができるでしょうか。
イエスらしい渇きを感じるという恵みは、自然に得られることではないでしょう。努力だけでも獲得することはできないでしょう。
本物の渇望は、認識と祈りによって得られる恵みです。
聖イグナチオの祈りが表す内容を常に思い巡らしていただける恵みです。
主よ、わたしの自由をあなたにささげます。
わたしの記憶、知恵、意思をみな受け入れてください。
わたしのものはすべて、あなたからのものです。
今、すべてをあなたにささげ、み旨に委ねます。
わたしに、あなたの愛と恵みを与えてください。
わたしはそれだけで満たされます。
それ以上何も望みません。
「互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、『神は高慢な人を敵とし、謙遜な人には恵み(Grace、Gracia)をお与えになる』からです。」
「謙遜はすべての徳の土台です。」(孔子)
もう少し謙遜になれるためにいくつかの提案があげられます。
感謝の気持ちを深めること。
自分の長所を相手の欠点と比較しないで、相手の長所を自分の欠点と比較すること。
人の価値を定めるには自分の長所を基準にしないこと。
あまり好きではない人が程度の低い人だと思い込んで、程度の高い自分は無理やりに、低い程度の相手に合わせてあげるという態度をやめること。この態度は、嫌な優越感、隠れた高慢です。つまり、対等な立場で人と付き合うこと。
人の成功を妬まないで、その成功を喜べるようになること。
人が褒められている時、妬まないで喜んで一緒に褒めること。
人のよいところを見て、感動して学びたい精神を引き出すこと。
自分をあまり分析し過ぎないで、自分の大抵の長所と欠点を明らかに見ること。その事実を素直に認めた上で、明らかに見た自分を向上してみること。つまり、向上心に満ちた謙遜を求めること。
結局、「実るほど首を垂れる稲穂かな」という俳句の稲穂のようになってみること。
実の豊かさの上で頭が自然に下がる、という謙遜な稲穂のようになれることを願い求めましょう。
「パン五つと魚二匹」を寛大に与えた少年は偉い。ケチらないで二人分の弁当を皆と共有にしたのです。実は、分け合った結果、皆から頂いた小さな鱒(ます)よりは、自分が出した鮎(あゆ)のほうがおいしかったかもしれません。でも、それほど大変な損をしたわけではなかったでしょう。むしろ、もし、セコイ人が多かったならば、自分が空腹のまま帰ることになったでしょう。やはり、分け合うのはいつもヤバイことです。
しかし、イエスの考えでは正解です。「あなた方が量る秤で量られ、さらに加え与えられる。(マルコ4:24)」
イエスがその食べ物を祝福された時、皆が満腹した上、いっぱい有り余るようになりました。わたしたちが分かち合うつもりの物をまずイエスに持って行くのです。イエスの祝福を頂いてからそれを分け合うのです。
イエスは、自分自身で人に食べさせないで弟子たちに配らせました。現代の弟子たちはわたしたちです。遠くから物を送るだけではなく、そばから配ることも大切です。
「青草がたくさん生えていた場所に皆を座らせた」と書いてあります。これは大事な要素です。青草は春を知らせます。羊たちが屠られていたのは春の過越祭でした。イエスの受難と十字架はこの場面の背景になっているのです。
今春の新型コロナウイルスという苦しみを体験しているわたしたちは力を合わせて、分かち合いの場である「神の国」を作りましょう。平等で助け合って、公平に分かち合って、寛大に大切にし合う「神の国」をこの世に作りましょう。
「神の国が来ますように。」
「光」という言葉の意味は深い。光は永遠の命です。キリストに従う人は光の子となります。イエス・キリスト自身は「人を照らすまことの光です。(ヨハネ1:9)」
しかし、どうすれば光を心に受け入れることができるでしょうか。
イエスは「真理を行う者は光の方に来る」と言われました。真理は心を透明にするので、光は透明な心にやさしく入ります。
つまり、光を頂く姿勢は真理を行うということです。
真理は知識よりも愛です。キリストについて深いことを知るよりも、自分をキリストに献身するということです。
真理は、神の言葉を聞いてそれを行うことです。
二心のある人は正義を行わないのです。裏で人の悪口を言ったり、陰険な手を使ったりする人は、光のほうに行かないのです。
正義を行う人は、動作と言葉を一致させるという誠実な人です。
嘘によって不透明になった心は光を拒むことになります。
ですから、真理を行って心を透明にして、受け入れた光を人の前に輝かしましょう。
イエスのように、イエスと共に「人を照らす光」となるように願い求めましょう。
「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためである。」
光を輝かす目的ははっきりしています。皆が天の父をあがめ、神に近寄って幸せになるという目的です。
光を輝かす方法は微妙です。「輝かしてあげる」という偉そうな態度は「超感じ悪い」でしょう。
謙遜に輝かし合うという態度が正解でしょう。
善行を分け合って人と輝かし合うという姿勢です。要するに、食べ物、お金、時間を分かち合うのと同じように善い行いをも分かち合うという態度です。互いに善い行いを見て励まし合うのです。
自分のささやかな善行を見る人は、「負けてたまるか」と思って、善いことをして自分の光を輝かすでしょう。
人の善行と長所を互いに見て、感動して、その人に対する尊敬を深めて、自分の向上心を強めて天の父に近寄るのです。
互いの光を浴びて、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の辛い経験から知恵を引き出しましょう。
「風は思いのままに吹く。音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない」とイエスはニコデモに言われました。
ギリシア語のPneumaには、「風」と「霊」という二つの意味があります。イエスはこの箇所の「風」という単語に、その二つともの意味を与えています。要するに、人間は風にも聖霊にも導かれるということです。
A.ユパンキというシンガーソングライターの歌が浮かんできます。「道、また道に連れられて、なぜかツクマン山脈にたどり着いた。」この「道」は、福音の「風」のようです。なるほど、人間は、思いがけないことが起こる人生の旅を道また道に連れられて歩き続けるのです。
勿論、道を選ぶのは人間です。でも、あの時、左の道が濡れていたので右の道を選んだし、次の二道で戸惑った時、右の道が険しかったから何となく左の道にしたのです。
これを繰り返しながら、いつの間にかツクマン山脈にたどり着いたわけです。
自分には行きたいところがあるけれども、新型コロナウイルスのような思いがけない事件が起こってしまい、自分が目指していた夢をちょっとそらして、方向を少し転じ、柔軟性を持って似たような「山脈」に行かざるを得ない時もあります。
つまり、風の音と動きに抵抗しないで、しなやかに連れられて歩き続けるのです。
しかし、風に身をゆだねると同時に、聖霊という風(Pneuma)に従うのです。
道が険しいとか濡れているとかいう状態を選ぶ基準にしないで、心の中から導いて下さる聖霊に従って歩き続けるのです。
イエスのように、イエスと共に、聖霊に満たされて聖霊に導かれるのです。
しなやかに風に連れられて、忠実に聖霊に従って歩けば、「柔軟性あり妥協なし」という姿勢で人生の旅を歩き続けることができるでしょう。
この場面のトマスは子供っぽい焼きもちを焼いていたようです。自分のいない時にイエスが皆に現れたので、自分は無視されたと思ったのでしょう。それで、「私は決して信じない」という反動を見せたわけです。
しかし、トマスは自分の過ちを素直に認めました。結局、性質のよい人でした。イエスがラザロを復活させるために、危なかったイエルサレムに行くと決めた時、「ディディモと呼ばれるトマスは、仲間の弟子たちに『わたしたちも行って一緒に死のうではないか』(ヨハネ11:16)」と言って皆を引っ張ったのです。イエスと一緒なら死んでも良いと本気で語るほどイエスを愛していたのです。
それ故、「私の主、私の神よ」と宣言して、高慢な無信仰から謙虚な信仰に挽回したのです。他の弟子たちより先にイエスが神だと認めたのです。イエスが神であることを「見ないのに信じる人」になったわけです。
一方、トマスの過ちを扱ったイエスは、さすがに気品のある態度を見せました。さっぱりした性格のイエスは、冷たい顔でトマスを無視しないで、さっそく彼と直接に話したのです。切れないで、くどくど文句を繰り返さないで、言うべきことを一回だけに確認してから、トマスの反省を信じることにしたのです。
こんなトマスにも、こんなイエスにも私たちもなりたいのです。
初代教会はキリストの精神に基づいて、「皆一つになって、すべての物を共有にし、各々の必要に応じて皆がそれを分け合った。」
次の物語はこの状態を分かりやすく描いています。
地獄を見学する許可を頂いた人は、この場面を見ました。広い平地に、丸くて2mの深い穴が沢山広がっていました。救われなかった人々は、十人ずつ穴の上の縁に、下に向かって座っていました。穴の底には素晴らしい御馳走が並べてありました。各自の片腕が縛られていいたが、2mの長いお箸で美味しそうな食べ物をつかむことができるようなっていました。ところが、お箸が長すぎて、つかんだ食べ物を口に入れることはできなかったのです。それで皆が空腹になっていたわけです。
これを見た人は、この永遠の欲求不満が地獄の罰なのだとわかって、なるほどと思いました。
次に、天国を見学する許可もいただいたが、入ってみるとなんと地獄と全く同じ状態を眺めてがっかりしました。ところが、よく見ると天国の一人はつかんだ中トロの手巻きを前の人に与えたり、前の人は取った伊勢海老を右の人にあげたり、右の人はつかんだ松坂牛ステーキを前の人に渡したり、その人は取ったケーキを左の人にあげたりしていたので、皆がいつも満腹だったのです。こんな物語です。
この世が地獄になるのか天国になるのかは、人間の自己中心か分かち合いの結果なのです。
でも、私はこの話に沿ってもう一つの状態を勝手に考えました。今の社会の現状を描く場面です。つまり、財産や肩書の面で強い人々は、穴の下まで降りて、自分たちだけで思う存分に食べているのです。上から食べ物をつかもうとするお箸を折ったり、降りようとする他の人たちを実力阻止したりして、自分たちだけで全部食べているという醜い現状なのです。
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)後の世界は、資本主義の中でも初代教会の精神に基づいた世界になることを願い求めましょう。
イエスと共に三年間を過ごした弟子たちは、イエスの言葉と行いに従って福音らしい初代教会を造りました。「皆一つになってすべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて皆がそれを分け合った。神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた。主は人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
この立派な社会制度は、共産主義とは違います。弟子たちは無神論者ではなかったどころか、深く神を信じていたからこそこの生き方を選んだのです。
また、軍隊や秘密警察が強制的に財産を共有させたのではなく、弟子たち自身が愛の上で自由に自分の持ち物を分け合っていたのです。
この魅力的な生き方を見て、当然、日々新しい人が仲間に加えられたのです。
ところが、なぜこの尊敬すべき生活様式はいつの間にかなくなったのでしょうか。この制度が徐々に消えた理由があります。
それは、貪欲に利益を求め過ぎるというエゴイズムなのです。利己的な儲けしか求めないエゴイストは、困っている人はどうでもいいと思って、自分の損を引き起こす分け合いを絶対に許したくないという理由です。
それに、働いても働かなくても分けてもらえるので、働かないほうがましだという利己的な価値観も原因になっています。皆のことを考えない者が怠けるので、不景気で中小企業は倒産し、全体の生産性が下がるわけです。
それ故イエスはこのように強調しました。「あらゆる貪欲に警戒しなさい。(ルカ12:13-21)」
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)という辛い経験が教えようとしている真実を受け止めて、この嵐が止んだ後、より良い社会を作りましょう。助け合って分かち合うという姿勢は救いに繋がるという真実を思い巡らしましょう。
「情けは人のためならず」ということわざの意味を悟って、資本主義の中でも初代教会の生き方を新世界の基本にしましょう。
ペトロはいつも、一秒も早くイエスのもとに行きたいと望んでいました。少し待てば皆と一緒に船で行くことができたのに、「『主だ』と聞くと、上着をまとって湖に飛び込んだ。」
嵐の時にもそうでした。湖の上を歩いていたイエスに、「『私に命令して、水の上を歩いてみもとに行かせてください。』と言って、船から降りてイエスのほうへ進んだ。(マタイ14:22)」
イエスを本当に愛していたのです。
私たちもイエスにはまることを願い求めましょう。キリストの教えは素晴らしい。
神である御父は、包んでくださる身近な温かさという神秘です。
神である御子イエス・キリストは、一緒に歩んでくださる友という神秘です。
まさに大船に乗った気持ちです。
復活したイエスが弟子たちから強く求められたことは、信仰です。心の平和を抱かせる信仰なのです。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。(マタイ28:20)」これを信じさえすれば、恐れることはないのです。
ところが、この言葉を信じた多くの弟子たちは、間もなく迫害を受けて殺されました。
その意味の恐ろしいことは沢山ありました。常にあります。
しかし、イエスは恐れるべきことと恐れなくても良いことの区別をはっきりと教えて下さいました。「体を殺しても、永遠の命を殺すことはできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:8)」恐れ得るべきことは罪なのです。人間を神から離させる罪こそ恐れるべきことです。
苦しみに遭わせられる人が神から離れないために、イエスがいつも共にいると約束しました。しかし、居るばかりでなく、私たちが自分の手でその災いを解決することができるためにイエスはいつも私たちと共にいて、絶えず働きかけて下さるのです。
イエス自身はCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)をなくしてくださるわけではないのです。私たちが忍耐と愛と知恵を生命力から引き出すことができるために、一緒に居て働きかけて下さるのです。忍耐強く自粛し、愛から生まれる助け合いや分かち合いを行い、頭と心を絞りながら知恵を引き出して、私たちの手で新型コロナウイルスの問題を解決することができるためにいつも共にいてくださるわけです。
つまり、イエスと共にいれば神に忠実であって、愛と忍耐と知恵を生かして、新型コロナウイルスを解決することができるのです。これは、イエスが強く望んでおられる信仰です。
信仰は、言葉を認めることだけではありません。本当の信仰とは、一緒におられるイエスの言葉を心に受け入れ、行いをもって実現するということです。
このように信じれば恐れるべきことはないし、心の平和に満たされることになるでしょう。
二人の弟子は、危険の高まっていたエルサレムから離れて、「エマオという村に向かって歩いていた。イエスご自身が近づいてきて一緒に歩き始められた。しかし、二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった。エマオの家に入られて一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだとわかったが、その姿が見えなくなった。二人は、時を移さず出発して、エルサレムに集まっていた十一人と仲間に戻った。」
イエスの姿は全然違っていたけれども、まさしく同じイエスでした。二人の目が遮られていた間はこの事実がわからなかったが、御聖体を頂いた時、二人の目が開けイエスだと認めたのです。
イエスの姿はすぐ見えなくなったが、イエスに出会ったあの一瞬間だけでも元気でいっぱいになって、時を移さず出発しました。本当は、旅で疲れたのでお風呂に入って、ビールを飲んで寝ようかなと思っていたのにすぐ出かけました。すでに夜でしたが、懐中電灯なしに危ないエルサレムに戻ったのです。
結局、すべてが元気の問題です。元気がなくてすべきことをやめたがる私たちもこの二人のようにキリストに出会って元気になれば良いでしょう。特に御聖体を拝領して、元気を取り戻して歩き続けましょう。家族やよい友達の仲間に向かって歩きましょう。
新型コロナウイルスの試練に合わせられている私たちは、人が助かるために人に仕えるという道を歩きたいと思っています。イエスに出会う時、同じ道を歩き続けるのですが、一人では歩かないことになります。旅の道、道の友なるイエスのようにイエスと共に歩くことになるのです。聖パウロアが書いたように、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
毎日のエマオでキリストに出会って、元気になりましょう。
イエス・キリストにも母マリアにもおめでとうございます。「あの方は復活なさった。」
新型コロナウイルスの試練に遭わされているこの世は、終わらないでしょう。
世は終わらないけれどもある世は、私たちの今までの世は、終わるかもしれません。
その後の世がどういう具体的な形で新しくなるかはわかりません。
しかし、どんな形で新たになったとしても「永遠の命」を中心にした世界を目指しましょう。
この世の中の「永遠の命」とは、神と愛し合って神と仲良く生きる、人間と愛し合って人間と仲良く生きる、自然と愛し合って自然と仲良く生きるという生き方です。
この意味の「永遠の命」を土台にして具体的な世界を作りましょう。
キリストのご復活とこの世の復活、おめでとうございます!
ゲッセマネで祈っておられたイエスには、続く元気がなくなったようです。
「アッバ、父よ、この杯を私から取り除けてください。」
しかし、ご自分を御父に委ねる元気はありました。「私の望みではなく、御心のままに。」この「御心のままに」という委ねはイエスの人生の決定的な瞬間でした。
砂漠で祈っておられたイエスは、誘惑に打ち勝ちました。あの時にはもっと若かったし、出発の情熱と希望にあふれておられたので、ほやほやの気分で余裕たっぷりに打ち勝ったのです。
ところが、あの時に負けた誘惑者は、最後の誘惑をする機会を狙っていました。「あらゆる試みを尽くして、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:13)」
福音における「時」という用語は、死と復活を意味します。地に落ちて死んで命をもたらす一粒の麦には、自分の「時」が来たということです。お産の日、苦しみながら命を与える女性には、自分の「時」が来たということです。
イエスは、ご自分の「時」が来る直前にゲッセマネの園で最も厳しい誘惑を受けました。弱い私たちがついていけない程いつも強いイエスは、あの夜、人間らしい弱さを見せてくださいました。真の神、真の人間であるイエスは弱気になったのです。自分の人生が失敗だったと思って、取りつく島もなくて、弟子にも友にも自分が癒した人々にも捨てられて、間もなく受け始める痛みが怖くて、メシアの使命を辞めたくなるほどでした。
しかし、たぶん最もつらかったのは、その苦しみに耐える意味が分からなくなったということでしょう。目的の意味は分からなくなるとやる気もなくなるのです。
それにも拘らず、自分を御父に委ねる元気を引き出して続く決断をしました。
その時からは、悲しみと苦しみを感じながらも元気と余裕を取り戻すことができるようになりました。
私たちも、頑張る元気を引き出せない時こそ、委ねる元気を引き起こしましょう。自分自身をその問題を自分のすべてを委ねる元気を引っ張って出すことにしましょう。
そうすれば、いつの間にか自然に気を取り直して少しずつ歩き続けることができるでしょう。
洗足には見るからにわかりやすそうな意味がありますが、この個所をより深く見ればその意味を見通すことができます。
弟子の主であり先生であるイエスは、彼らの足を洗います。この模範に従って、上に居る強い人は下に残された人に仕えるべきです。下の人を利用して自分の力を強めるのではなく、自分に与えられている力を下の人を立てるために使うべきだという教えです。
つまり、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:12)」
謙虚な気持ちで互いに助け合いなさいというわかりやすい意味の言葉です。
ところが、イエスはペトロにこのことを言われました。「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたには私と何のかかわりもないことになる。」なぜでしょうか。まさか、その時あの部屋に居なかった人は皆、イエスと「何のかかわりもないことになる」訳ではないでしょう。どうして洗足はそれほど大切でしょうか。
イエスは洗足により深い意味を与えるのです。ご自分の血で人を洗わない人は清められない、救われないという意味です。福音者ヨハネも「血で洗う」という比喩を使います。イエスは「私たちを愛し、その血で洗ってくださいました。(黙示録1:5)」
エジプトの過越の晩さんにもユダヤ人が羊の血によって救われたのです。(出エジプト12:1-14)
他の所にもこの比喩が現れます。
それに、「この上なく愛し抜かれた」という言葉はキーワードになります。イエスは、「上なく愛する」という表現を他の時にも使います。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)」 なるほど、イエスは友達と読んでくださる私たちを救うために死ぬという事実を示しておられるのです。
つまり、イエスが水で足を洗うという動作は、ご自分の血で人を洗うという意味を含むのです。洗足は救いなのです。
全世界では今、特に病院、老人ホームなどで新型コロナウイルス感染者を助けるために病気になる、もしくは「命を捨てる」人が沢山います。模範になるこの方々に深く感謝しましょう。
しかし、その方々は決して英雄たちの特別な部隊ではありません。私たちの模範になる一般市民です。その方々がすることは英雄の優れた行為よりも、人情と愛のある一般市民もすべき当たり前の行いです。私たち一人一人がすべきことをその「部隊」だけに任せないで、その方々のように人を助けることにしましょう。「命を捨てる」まで行かなくても、日常生活において、助け合って、分かち合って、譲り合って生きることにしましょう。
それができるためには、勇気と知恵を願い求めましょう。
イエスの御像はなくなったイエスの思い出です。イエスの御聖体は生きるイエスの存在です。
大切なことが遠ざかる時、いかに大切だったことがわかります。聖体拝領、聖体訪問のできなくなった今、皆さんは、その大切さがわかるようになったでしょう。
でも、イエスはいつも、御聖体の場所に近寄ることができなくなった皆さんのそばに居て下さるのです。
しかし、裏を返せば、この状態には危険性もあります。慣れという危険です。今の状態に慣れて、御聖体が欲しいという望みは弱くなるという危険なのです。
ですから、R.タゴールのように祈りましょう。「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせて下さい。」
さて、御聖体は過越しの晩さんの時に生れました。出エジプトが述べる晩さんには、家族が羊を食べて、その血をとって家の入口に塗りました。天罰は門に血のある家を過ぎ越したのです。その家は羊の血によって救われたわけです。
イエスの晩さんには羊がありませんでした。イエス自身が羊になっていたのです。神と契約を結んだアブラハム、モーセなどは、生けにえを国民に食べさせました。イエスは、ご自分という「生けにえの子羊」の肉と血をパンと葡萄酒にして、「これを食べなさい、飲みなさい。これは私の体である」と言われました。
御聖体を拝領する人は、イエスとの一体を感じることができます。イエスという命の糧に養われてたくましくなることができます。羊の血によって清められます。
御聖体を拝領することは意味深いことです。ただし、その意味の可能性に自分の意識と努力を注いでその可能性を実現しなければ、可能性としては有意義で、実際はほとんど無意味な式になるかもしれません。
御聖体の形で一緒に残って下さるイエスに向かって、新型コロナウイルスを解決することができるために、知恵と実行力と忍耐を願い求めましょう。
エルサレムの神殿はユダヤ教の本部でした。しかも、だんだん政治や経済の中心になってきていました。
イエスは今日、正式な形で神殿に入りました。あの当時の宗教の中心と象徴である神殿に入って、それを清めて、「祈りの家」という本来の姿に取り戻して、神の国が来たと宣言して、神殿の本当の祭司長が自分である事実を公に示しました。この重要な事柄の意味が良く分かった祭司長、祭司たち、長老たちなどは、なお一層、イエスが死ぬべきだと再度確認しました。
ところが、この大事な出来事は地味な場面として描かれています。「弟子たちがロバの上に服をかけると、イエスはその上にお乗りになった。人々は木の枝を切って道に敷いて、『ダビデの子、ホサナ』と叫んだ。」「ホサナ」とは、「祝福があるように」また、「救ってください」という意味の言葉です。
私たちは、それほど優秀ではない行動を派手に見せたがります。それは、自己宣伝よって認められたいからです。
イエスは、優れた行為を素朴な外形で行われます。本物であるイエスは自己ピーアールなんて必要としません。本物だけの価値がいつか必ず現れるのです。
エルシド(El Cid)という「侍」についても似たような誉め言葉が書いてあります。
古典スペイン語の逐語訳で言えば、「するには長い、語るには短い」という文書になります。長い戦いによって勝ち取った勝利を手短に述べる人でした。
イエスは飾り気ない形で神殿に入りました。しかし、なぜそうなさったのでしょうか。
それはもちろん謙遜な方だったからでしょう。それに、貧しかったからでしょう。
自分の物ではない馬小屋に生まれて、自分の物ではないロバに乗って神殿に入って、自分の物ではない墓に葬られた方なのです。
思えば、M.L.キング牧師は、デモに出る前にこのような話をしていました。「我々にはお金も、軍隊も、武器もありません。しかし、我々には真理があります。真理はあらゆる問題に打ち勝つのです。」
イエスは、謙虚な品格をもって真理を信じていました。こんなイエスのようになることを願い求めましょう。
祭司長、祭司たち、長老たち、ファリサイ派の人たちなどは、イエスの死刑を決めました。彼を逮捕することができる機会を待ち構えていました。
イエスはもちろん、沢山の人々もこの事実を知っていました。
そこで、せとぎわになっていた過越祭が近づきました。「ユダヤ人は神殿の境内で、『どう思うか、あの人はこの祭りには来ないのだろうか』と互いに言った。」
イエスは迷わずに来ました。怖かったでしょうが思い切って来ました。
イエスは、身の危険に際して見事な勇気のある方でした。
殺される覚悟の上で偉い指導者たちや権力者たちに向かって言うべきことを言いました。ユダヤ人にとって極めて大事であった安息日の掟よりも、愛の掟を優先しました。異邦人を立てました。死んだラザロを復活させようと思って、危ないイエルサレムに近いベタニアに行きました。ヘロデ王の命令に逆らいました。
決して、目立ちたがって、恰好をつけて突飛な態度を見せようと思ってこのようなことをしたわけではないのです。
命懸けですべきことをしただけです。
こんなイエスに私たちもなりたいのです。けれども、怖い。イエスと比べて、危険のスケールをうんと落としても怖いです。
そこで、キリストのように勇気と忍耐と忠実度を願いましょう。
「神よ、私から遠く離れず、力強く守ってください。(詩篇22:20)」
人をほめることは親切な行為です。人の成功を拒まないで、心の温かさのある者は、人を自然にほめる習慣を身に着けています。
そばにいる人をほめれば、その人の自信は深まります。学ぼうとしている人の失敗を批判するよりも、その人の成功をほめる教育方針は適切でしょう。「蜂蜜の一滴は、酢の一瓶より効果的である」というスペインのことわざがあります。
そばにいない人をほめる習慣も清い心を物語るのです。近くに居ない人の悪口を言う者は多い。仲間が楽しく集まっている時、誰かが先に帰るのなら、早速その人に対する悪口が出ることがあります。
ヨハネは清い心の持ち主でした。自分の弟子たちに、近くに居なかったイエスのことを高く評価していました。「多くの人が言った。『ヨハネはこの方(イエス)について話したことは、すべて本当だった。』そこでは多くの人がイエスを信じた。」ヨハネは決して、嫉妬の上でイエスの悪口を言わなかったのです。それどころか、イエスを何回も立てました。
しかし、人をほめる時、口先だけでわざとらしく人の良いところを述べるのではなく、心からその人をほめるべきです。その人の長所に感心して、その人から学びたい精神を起こして、自然にほめるのが良いでしょう。
しかし、人の長所を称賛してから、「だけどね」と付け加えて、その人の欠点を強調することはふさわしくないでしょう。「けれども」と言ってから良いことを指摘したほうが親切です。「バラは綺麗ですけれども、刺があります」というほめ方は暗い。「バラには刺がありますが、綺麗です」という順番のほうが明るい。「けれども」の次の言葉は、後味を決めるのです。
謙虚な気持ちで人の成功を喜んで、人を自然にほめるように努めましょう。
真理と誠実と透明性は解放感を抱かせます。
嘘をついた人は、その嘘がばれないようにして、何回も嘘を言わなければならないという渦に巻き込まれます。
上手く嘘を隠し続けるためには、記憶力や集中力が必要です。その力を常に使っている人は、外側から落ち着いているように見えても心の平安を失っているでしょう。
真理はその緊張を解くのです。嘘が縛り付けます。真実は嘘の鎖を放ちます。
ただし、辛い真実に耐えられそうもない患者に、「軽い胃潰瘍だけです」と言う家族の嘘は、悪い嘘にはならないでしょう。
あるいは、見るからにお世辞を望んでいる50歳の人が「この服を着て幾つに見えますか?」と尋ねてくるとしたら、もし私が「40歳ぐらい」と答えても、本人はそれが嘘だとわかっているので、人の気持ちを優先するその嘘は、悪い嘘にならないでしょうう。本当は60歳に見えると思っていても…。
そう言えば、1960年代に有名だった”We shall overcome"(我々は克服する)と言う歌を思い出します。その歌詞の一つの部分は、「真理は我々を自由にしてくれる」という言葉です。M.L.キング牧師は、非暴力的なデモに出る前に、いつもこの歌の精神を皆に確認していました。「私たちが求めるのは、自分の権利と自由ではありません。真理が認められることを求めています。真理は、私たちを自由にしてくれるでしょう。」
キリストの弟子である、或いは弟子になりたいと思っている私たちも透明性と誠実と真理を願い求めましょう。
神の自己紹介はこれです。「神はモーセに言われた。わたしは『わたしはある。(I am the “I am”)というものである。』(出エジプト3:14)
神は存在するからこそすべてが存在するのです。物事が存在する前に存在し、現在も存在し、未来、永遠に存在する方です。
神を紹介して下さるイエスは、「ヤーヴェ」を「御父」と呼びます。
イエス自身は神です。「言(イエス)は神であった。」(ヨハネ1:1)
「わたしを見た者は神を見たのだ」と言いました。(ヨハネ14:9))
特に十字架につけられて死んだイエスは、御父の本来の姿を現しました。
「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて、『わたしはある』ということがわかるだろう」と言われました。(ヨハネ8:26)
十字架に上げられたわたしを見る人は、神の神秘がわかるだろうという意味の言葉です。
なるほど、イエスが十字架で死んだその瞬間に、「神殿の垂れ幕が上から下まで裂けた」と書いてあります。この言葉の解釈はいろいろあります。あの当時、本来のユダヤ教から外れた宗教が終わって、キリストの神の国が始まるとか、また、人間のために天国が開かれたと言うような説明があります。
私が最も納得いく解釈は次のようです。顔の見られない神の処は、神殿の一番奥の場で、垂れ幕で隠されていました。キリストが息を引き取られた瞬間に、その垂れ幕が真っ二つに裂け、神の本当の顔は現れました。死ぬまで愛を示したイエスこそ、神の本当の顔です。
しかも、十字架に上げられたイエスを仰ぎ見る者は、救われるのです。「わたしが地上から上げられた時、すべての人をわたしのもとに引き寄せる。」(ヨハネ12:32)これを予告するのはモーセです。「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでもその人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た。」(民数記21:9)
ヨハネはこのように神を紹介します。「神は愛である。」(ヨハネI,4:16)
パウロはこのように書きました。「霊によって、私たちは神を『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)「アッバ」とは「とうちゃん、パパ」を意味する言葉です。
また、パウロは言いました。「私たちは神の中に生き、動き、存在しています。」(使徒たちの宣教17:20)
私たちは神という神秘の身近な温かさに包まれているのです。
これを信じて「COVID-19(新型コロナウイルス感染症)状態」にある私たちは、この悲劇の解決を祈りながら、この状態を乗り越えるための愛と忍耐と希望を願い求めましょう。
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、尊敬されていたイエスの評判を落としてから、逮捕することを狙っていました。そのために、皆の前で答えにくい質問をしていました。神殿に税金を納めることは律法で許されているか否かとか、姦淫したこの女を石で打ち殺した方がいいか否かとか言うような質問によって、イエスを板挟みにしようと思っていました。
もしイエスが、「律法に従って打ち殺しなさい」と言えば、彼らは、「この人は偽善者だ。愛し合いなさいと頻繁に教えているのに、自分が困らないためにこの可哀そうな女性を殺させる」と言ったでしょう。
もしイエスが、「石を投げてはいけない」と言えば、彼らは「この先生は律法を守らない」と言ったでしょう。
その時、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」要するに、時間を稼ぎながらどう答えればこの女性を助けることができるかと考えていたでしょう。
彼女は無罪だとわかっていました。ダニエル預言のスザンナのように、偽証人によって罪を着せられていたことは見え見えでした。
しかも、仮に彼女が罪を犯したとしても、一緒に同じ罪を犯した男性はどうして責められないのか。イエスはその不公平も許せないと思っていました。
そこで、さすがに鋭いイエスは、「あなた方の中で罪を犯したことのない者は、まず、この女に石を投げなさい。」と返事をしたのです。つまり、返事しないで返事した訳です。しかも、その返事は、一石二鳥で、貴重な教えにもなります。
この言葉は、人を罪に定める傾向のある私たちにも大いに当てはまります。
人の欠点や過ちを批判しがちな自分には、欠点や過ちがないわけですから、私たちも、人に投げようとしていた石をそっと地面に置いて、律法学者たちのように「立ち去ってしまう」ほうが良いでしょう。
人に石を投げないどころか、微妙なことをする人を罪に定めないで、その言葉や行いをなるべく良いほうに解釈しましょう。
過ぎ越し祭のエルサレムが非常に危ないとわかっていたトマスは、仲間を励まして「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。イエスを一人にしないで、イエスと一緒なら死んでも良いという友情と勇気と忠実性を見せたトマスのように、私たちもなりたいのです。
イエスが「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」と尋ねた時、マルタは、「あなたを信じております」と答えました。
イエスの言葉はよくわかりませんが、イエスを信じています。これはマルタの信仰です。この信仰は本物です。このマルタのように私たちも信じたいのです。
「マルタがマリアを呼び、『先生がいらして、あなたを読んでおられます』と耳打ちした。マリアはこれを聞くとすぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」イエスはいつもそばにいらして、私たちを常に呼んでおられます。すぐに立ち上がり、イエスのもとに行ったマリアのようになりたいのです。
イエスは「私たちの友ラザロは死んだのだ。彼のところへ行こう」と言いました。
ご自分が殺される危険を十分認識しておられたのに、思い切って友達を生き返すためにエルサレムに向かって歩き出しました。 イエスは、ラザロの墓を見て、姉妹たちの悲しみを感じて「涙を流された。」イエスは、冷たい正しさで人を助けるのではなく、心の温かさをもって人を大切にする方です。 この友情と勇気と心のあるイエスに私たちもなりたいのです。
「この人は律法を守らない」と言って、イエスを裁いていた議員やファリサイ派の人々に、彼らの中の一人であるニコデモは言った。「我らの律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならない。」
これが当たり前ですが、私たちは時々守らないことです。
人を裁く時、まず、噂によらないで、直接に事実経過の生放送を本人から聴くべきです。
それから、偏見にとらわれないで話を聴くべきです。ファリサイ派の人々は、イエスの自己弁明を聞く前から判決を下していました。「ガリラヤからは預言者が出ない」と言う不合理な先入観をもって、すでに結論に達したのです。ですから、話を聞かないうちに決断を出さないで、「あなたはいつもこうなんだから」というようなレッテルを貼らないで、開かれた心でその人の話を聴くべきです。
また、本人が使った言葉にこだわりすぎないで、本人が言いたかった内容を理解して、言葉をなるべく良いほうに解釈すべきです。
この実現を今から本気で願い求めましょう。
皆が兄弟姉妹であるという実感から生まれる連帯意識。
これは、新型コロナウイルスの試練を機会に、神が望んでおられる助け合いと分かち合いという連帯感です。
今、この連帯意識はこの災いを転じて福となすでしょう。
将来、この世を永遠の命の場にするでしょう。永遠の命とは、神と人間と自然と仲良く生きることです。
連帯感の実現は、この世に永遠の命をもたらします。
新型コロナウイルスの犠牲者は多いし、生憎もっと増える危険性が強いです。しかし、殺し合いの戦争と不公平な貧困が引き起こす犠牲者の方が、比べものにならないほど大勢です。
しかも、ウイルスは知りながら人を殺しません。戦争に行く人は意識的に人を殺すのです。貧困は、私達の無関心とエゴイズムが許している状態です。
このパンデミックな伝染病が済んでからも、戦争と貧困という最大な罪の解決になるのは、連帯感の実行なのです。
この世界に入られたイエスは、「神よ、み旨を行うために私は来ました(ヘブライ10:6)」と言われました。「委ねます。」
イエスが人間として生き始めたその瞬間に母マリアの胎内で聞いた最初の声は、「お言葉どおりになりますように」という言葉です。「委ねます。」
イエスが十字架から大声で叫んだ最後の声は、「父よ、私の霊をあなたに委ねます」という言葉です。「委ねます。」
私たちも、「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び(詩篇40:6)」と感じて、神からの愛を信じて安心感を抱きながらすべてを主に委ねましょう。
自分がすべきことをして、自分と自分のすべてを神に委ねて、「私たちにあなたの愛と恵を与えてください」と願いましょう。
「イエスは、38年も病気で苦しんでいる人に、『良くなりたいか』と言われた。」
長い間生きる意欲がないという病気で悩んでいる自分にも、イエスは「本当に良くなりたいか」と聞きます。努力すれば治るとわかってはいるけれども、意志の弱い自分にはそれがなかなかできないのです。
その場合、自分の弱さに妥協しないで、騙しだましやってみて、だんだん少しでも良くなるようにしてみればうまくいくでしょう。
「イエスは、『もう、罪を犯してはいけない。さもないともっと悪いことが起こるかもしれない』と言われた。」この言葉の意味は、もっと悪い病気で体を壊すということではないでしょう。イエスにとっては、愛は、善と幸せです。罪は、悪と不幸です。
したがって、この箇所の「もっと悪いこと」は、罪を犯して、心を裏切って愛である神から離れるということでしょう。つまり、罪の結果は、病気よりも神からの疎外感なのです。
なお、牧者である神は私たちを教会の他の「緑の牧場に導く。(詩篇23)」「水が聖所から流れ出るその牧場では、すべての生き物は生き返り、清められた川のほとりの葉は薬用となる。(エゼキエル47:12)」
その葉は、心を癒す薬用になると同時に新型コロナウイルスから体を保護する薬にもなりますように。
自然法則は、新型コロナウイルスを世界に送りました。この目に見えない、どこにもいる小さなウイルスは、パンデミックという世界的な大流行の原因になりました。
ギリシア語のPanはすべて、Demosは国民、国を意味します。
神は、このウイルスが起こした状態を通して、「世を新たにされます。」
要するに、神は私たちがこの状態を機会に生き方を再考し、自ら新しい世界をつくるように呼び掛けるのです。この厳しい状態は、人間にとって生きる知恵を深める機会になりました。生き方、価値観、家庭、人間関係、仕事、レーサーなどを考え直す好機になりました。
この際、私たちが特に次の三点を再検討すれば良いと思います。
謙遜になること。
動物や植物より優れていて、理性と自由の持ち主であって、高度な文化と文明を作り上げた人間は、自信過剰で威張りすぎています。この小さなウイルスのせいで、命、健康、経済状態、自由、スポーツ、すべてが軽くだめになりました。この事実の意味を悟って、もう少し謙遜になれば良いでしょう。
連帯意識を深めること。
この危機に打ち勝つためには、個人主義を超えて、社会と世界の皆と団結して一緒に助け合う必要性は明らかになりました。現代人はこの事実を悟れば良いでしょう。
余裕をもって生きること。
人生のスピードを落として、心と頭をより豊かにすれば良いでしょう。ゆっくりと本を読んだり、音楽を聴いたり、一旦立ち止って深いところの自分と話したり、神と一緒に居たりするというような習慣を身に着けて、生きる知恵を深めれば良いでしょう。
この意味で世を新たにするのです。
神はそれと同時に、「神は、私達の悩みを心に留められる。(詩篇3:1)」という言葉を信じて、皆のために祈りましょう。
苦しみ、不幸、煩いなどは、罪の天罰でしょうか。
「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と聞いた弟子たちは、天罰だと思っていました。
しかし、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである」という答えで、不幸と罪とのつながりを否定するわけです。
幸と不幸の原因は、自然法則(例えば、新型コロナウイルス)と人間の自由(戦争)なのです。神は、喜びや悲しみを送るよりも、それを私たちと一緒に受け入れて下さるのです。「お前の悲しみを知っている。お前の悲しみを知っている。」と呟きながら。
なお、可哀そうな人を抱きしめて共に悩む神は、その人を慰めるだけではなく光と力、刺激と希望を感じさせるのです。
要するに、苦しむ人は、反動で恨みや不信仰を感じることが多い。そこで、苦しんでいる人を抱きしめる神は、その人が恨みや不信仰ではなく、愛と信仰を感じるようにそっと応援して下さるのです。
また、成功や喜びはエゴイズムと高慢を感じさせる時が多い。そこで、一緒におられる神は、その人が分かち合いと感謝を望むように優しく励まして下さるのです。
ところが、この箇所には誤解を招く言葉があります。「この人が生まれつき目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためである」という言葉です。
決して、キリストが奇跡を行うことができるためにこの人が障害者で生まれたわけではありません。イエスは、愛という「神の業」を行ったので、この人が見えるようになったのです。
しかも、イエスは「私が世に居る間は、世の光である。(ヨハネ9:4)」と言いましたけれども、その後は、弟子たちと私達が「愛の業」を行って、人々の心に光を与えるべきです。私たち自身を含めて、皆の心の目が開かれるために「神の業」を行う使命を与えられています。
つまり、「私は世の光、私に従う人は命の光を持っている。(ヨハネ8:12)」という言葉を私たちが実現することになっています。
最後に、今日は「喜べ」(ラテン語では、Letare)の日曜日です。ローズ色の祭服が使われる日です。イザヤ預言者は私たちに言います。「悲しみ(世界的な新型コロナウイルスの大流行)に沈んでいる地球の者よ、喜べ。神は豊かな慰めであなた方を満たして下さる(イザヤ6:11)」と言う言葉の実現を願い求めましょう。
高慢なファリサイ派の人は、律法を守る自分の正しさをほめて、罪人の徴税人を見下します。
謙遜な徴税人は、自分の罪を認めて、神様にも人間にも見下されるのが当然だと思って哀れみを願います。
イエスは、「義とされて家に帰ったのは徴税人だ」と確認しました。
孔子も教えたように謙遜はあらゆる徳の土台です。
私たちも人を見下したがります。自分の長所を相手の欠点と比較して、自分を上にする傾向があります。
自分の長所を基準にして人の価値を定めるので、自分が上から人を見下すのです。
では、人を見下さないどころか、治らない欠点のある人を明らかに見て、受け入れて、その良いところに感動して学んで、その人の長所を皆に知らせることにしましょう。
因みに、今日のホセア預言者の言葉は綺麗です。「主の御前に生きるために傷を包んでくださる主のもとに帰ろう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れて下さる。主が喜ぶのは、愛であって生け贄ではなく、神を知る(愛する)ことであって焼き尽くす捧げものではない。」
「主が、降り注ぐ春雨のごとく」大地を新型コロナウイルスから清めて下さるように祈りましょう。
律法学者は、「第一の掟はこれです。『聞け(ヘブライ語では“Shema!”、この長い文書の題名になります)イスラエルよ!心を尽くして精神を尽くして思いを尽くして、唯一の神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。』これはどんな焼き尽くす捧げものや生け贄よりも優れています」と言いました。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
イエスは彼の適切な答えを見て、『あなたは神の国から遠くない』と言いました。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
「遠くない」けれども、まだ入っていないということです。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
彼が次の二点を守れば中に入ることができたでしょう。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
即ち、“Shema”を行うことと、そしてイエスを受け入れて弟子になるということです。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
私たちも適切な発言をしたり、立派な計画を立てたり素晴らしいことを考えたりするけれども、それを実行に移さないかもしれません。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
また、洗礼を受けているのか、或いは受けようとしているけれども、キリストの弟子にはなっていないかもしれません。旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
旅の道、道の友なるイエスの弟子になって、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めましょう。
ヨセフは哀れみ深い人でした。
天使が夢で現れて「恐れずに妻マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言われる前には、当然、妻に裏切られたと思っていたでしょう。
そうした理由でシェクスピアのオセロだけではなく、沢山の夫たちが妻を殺しました。しかし、哀れみ深い気品のあるヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望ます、ひそかに縁を切ろうと決心しました。」
「ヨセフは正しい人であった。」
律法を守るために妻と縁を切ることにしました。しかし、怒って軽蔑的に冷たく妻を追い出したのではありません。
悲しんで黙って愛していた妻から別れようとしたのです。
要するに、律法を守る正しさがあったと同時に心の温かさもあったわけです。
A.カミューの言葉が浮かんできます。「正義には、正しさと共に心の温かさも含まれるはずです。
ところが、人間は正しさを選んで心の温かさを忘れたので、正義の名できわめて不正なことをし続けてきました。戦争、死刑制度・・・。」
「ヨセフは信仰深い人でした。」
非常に信じにくいことを信じて、マリアのように「お言葉通りになりますように」と言って「天使が命じた通りにした。」つまり、哀れみ深さ、正しさ、信仰です。
この徳に満ちていたヨセフは、すべてに勝る宝物を頂きました。ずっと聖家族の中で、救い主である神の子と共に大工の仕事をしていたし、人生のパートナーになった聖母マリアと一緒に生きることができました。良かった!
こんなヨセフに私たちもなりたいのです。
「日本の信徒発見の聖母」(ヨハネ19:25-27)
「幼子はマリアと共におられた。」(マタイ2:10~11)
「イエスの十字架のそばにその母が立っていた。」(ヨハネ19:25~27)
「私たちは皆、あなたと同じ心です」と言った隠れキリスタンは、聖母に守られて、二百年以上の迫害を耐え忍ぶことができました。
新型コロナウイルスのため、教会と秘跡と講座と友達から離れている私たちも聖母マリアと一緒に居て、守られている事実を感じることができますよう願い求めましょう。
祈りで願って、努力で求めましょう。
今日の箇所は、「言(ことば)は自分のところに来たが、民は言を受け入れなかった。(ヨハネ1:1-11)」という言葉の実現を述べます。ナザレにお帰りになったイエスは、自分の故郷のユダヤ人たちに受け入れられなかったということです。
それと同時に今日のルカの箇所は、イエスの受難と死と復活を次のヒントをもって予告します。「イエスを町の外へ追い出して山から突き落とそうとしました。(エルサレムの外にあるゴルゴタという丘)しかし、イエスは人々の間を通り抜けてゆっくりと立ち去られました。(復活)」
ところで、なぜ「会堂内の人々は皆憤慨し総立ちになった。」のでしょうか。
それは、イエスが次の歴史的な事実を確認したからです。神は、ユダヤ人を優先しないで預言者エリヤを異邦人のサレプタというやもめに、預言者エリシャを異邦人のナアマンにお遣わしになったという事実です。会堂内の皆は、その「侮辱」を口に出した人が許せないと思って怒ってイエスを殺そうとしたわけです。
イエスは、この時だけではなくいつもユダヤ人に軽蔑されていた異邦人を立てていました。そればかりか、そうすること自体が十字架につけられる一つの大きな理由になるとよく知っておられました。
私たちも口先だけではなく、命を懸けて信念を貫くことを願い求めましょう。
今日もまた不思議な日曜日です。
鐘の音が、人のいない教会に響きわたる日曜日。
今日の福音はこの状態に合っています。
「あなたがたがこの山でもエルサレムでも(イグナチオ教会)でもない処で父を礼拝する時が来る。」
新型コロナウイルスのおかげでその時はすでに来ています。
「その時、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝する。」
今こそ、心という「霊」をもって、また行いという「真理」をもって礼拝する時です。
このように礼拝すれば「あなた方は聖霊の神殿である」という聖パウロの言葉は実現されます。
イエスは付け加えます。「私が与える水はそれを飲む人の中で泉となり、永遠の命の水が湧き出る。」
要するに、イエスの水は永遠の命の言葉です。この水を飲む人は、永遠の命に満たされるばかりでなく、周りの人を満たすことができるためにも永遠の命の湧き出る泉になるわけです。
この貴重な水を飲んで泉になることを願い求めましょう。
[ヨハネ4:19~24]
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
「放蕩息子」の例え話は、「罪人たちを迎える」イエスの態度の説明になります。
父親は神様の象徴です。戻ってくる放蕩息子を赦して、受け入れて抱きしめます。
私たちも悪いことをした人を心から赦して、治らない欠点のあるその人を受け入れて大切にすべきです。
弟は、神から離れて、家族からも大切な人からも離れて、「そこで放蕩の限りを尽くしました。」私たちも彼のように「我に返って」神にも大切な人にも戻って謝るべきです。
兄は、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」の象徴です。異邦人や罪人たちと違って、昔から律法を厳しく守り、異邦人や罪人たちを迎えるイエスを批判していたユダヤ人たちの代表です。
兄が、「何年もお父さんに仕えていつも一緒にいたのに」報いをあまり頂かなかったという文句をつけました。その時、父親は答えました。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。」
要するに「いつも私と一緒にいる」ことで報いを受ける権利があるのではなく、「いつも私と一緒にいる」そのこと自体が報いなのです。
私たちもいつも神と一緒にいるという事実を感じさえすれば、他はすべてよしなのです。
決して他のすべてが大切でなくなるという意味ではないのです。それどころか他のすべての大切さを前よりも深く感じられるという意味です。
家の土台とされていた「隅の親石」は、イエス・キリストです。
「家」とは人生の根本方針、また、その根本方針を実現する手段です。
「親石」は、家の地面の四つの隅にあったという説があります。
しかし、イエスは一人なので、むしろ次の説の方が本当らしいと思います。
即ち、丸屋根の家の重さは、全部天辺の隅にある石に集中します。全てを支えるその石は、「隅の親石」だったという意見です。
その石がしっかり入っていれば家は安定します。
自分のすべての中心を、つまり、家の「隅の親石」をキリストにする人は安定した人生を送ることができます。
キリストのようにキリストと共に生きる人は、地震という苦しい試練にも耐えることができるでしょう。
すべての金持ちが悪いということではなく、分かち合いをしない人は悪いということです。
この例え話の金持ちの悪いところは、「紫の衣を着て毎日ぜいたくに暮らしていた」ということではなく、「門前に貧しいラザロが横たわっていた」のに、何も与えなかったということです。
しかし、この箇所には、見逃してはならない他の厳しい言葉も書いてあります。
「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここに彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」という言葉です。これは、私たちにも当てはまるかもしれません。
では、私たちはどうしましょう。このようにしましょう。
器を清めるためには、器に入っている食べ物を飢えている人と分かち合った上、自分に残った部分を感謝しながらいただくことにしましょう。
つまり、分かち合いと感謝によって心である器を清めましょう。
イエスの弟子は、自分の分野で偉い人になりたいはずです。
低い姿勢で歩きたいという姿勢は、謙遜から生まれる徳ではなく怠慢や臆病から生まれる欠点です。
この箇所でイエスが勧めるのは、謙遜と愛と忍耐に満ちる向上心です。
威張らないで、人を見下さないで、人の成功を喜ぶという謙遜に満ちる向上心。
仕えられることよりも仕えることを望むという愛に満ちる向上心。
苦しみに耐える忍耐、痛みを超える忍耐に満ちる向上心。
この意味で偉くなることを願い求めましょう。
[マタイ20:17~28]
イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、願い事をした。
イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、彼女は言った。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」
イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」彼らが、「できます」と言うと、
イエスは言われた。「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左に座ることは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
「主は言われる。雨も雪も、ひとたび天から降りれば虚しく天に戻ることはない。大地を潤し、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。虚しくは私のところに戻らない。」(イザヤ55;10-11)
「雨と雪」は神の言葉です。即ち、「聞け(ヘブライ語ではSHEMA)イスラエル。心を尽くし、精神を尽くし、体を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、自分を大切にするがごとく隣人を大切にしなさい」というSHEMAです。
しかし、「雨」が道端か石だらけの土かいばらの多い土に降りれば、実を結ばないのです。良い土に降りれば豊かに実を結ぶのです。
「良い土地」とは、神の言葉を心に受け入れ行いで実現する人です。
雨に潤われる土は、良い土地であれば実を食べる者には糧となり、種まく人には種となります。要するに、神が言葉を行う人には永遠の命の糧を与えると同時に人のために種を蒔くことができ、種(み言葉)を与えて下さるのです。
つまり、食べて蒔くのです。満たされて満たすのです。生かされて生かすのです。
因みに、神の愛はさすがに純粋です。ご自分が愛する人の将来のためにも役立つ愛なのです。
食べる時だけではなく、その後ずっと残る糧を与えてくださいます。
もし雨が潤う土が良い土地であれば。
11月20日(水)の朝日新聞朝刊に掲載されたインタビュー記事をご紹介いたします。
結局、A.カミュが書いた通りです。
「正義には、正しさと共に心の温かさも含まれるはずです。
しかし、人間は、正しさを選んで心の温かさを忘れてきたので、正義の名では、非常に不正で、赦せないことをし続けてきたのです。例えば、戦争・死刑など…。」
執行を待っている囚人たちは、ずっと花を見ることができないので、小菅の拘置所では、個人面接の時にいつも立ち合っている職員が、自発的にテーブルの上に季節のお花を飾っておいてくださいます。
大変な状態に置かれている彼らが大切にされていると感じて、ほっとする場面です。
ある高齢者の夫婦が公園のベンチから立った時、妻は夫の背広と襟をきちんと整えました。それから二人でゆっくりと歩きだしました。長い人生の中で彼女はそのようなことを何回繰り返してきたのでしょうか。彼がその手を何回感じたのでしょうか。
別れる夫婦が多いこの世の中で、互いに忍耐しながらも長い人生を仲良く分かち合ってきた夫婦も多い。そのような夫婦の日常の光景を目のあたりにすると心が洗われます。
なお、相手の目からおが屑を取り除いてみる前に、まず、自分の目にある丸太を取り除いて、自分の目がはっきり見えるようにする必要があります。要するに、自分のすべての欠点を直すのではなく、視線を妨げる欠点をなるべく直してみる訳です。
すなわち、人の悪いところを見て、「良いところを見ないという欠点」「その人に対する偏見という欠点」のように私たちは好きな人がするすべてが素晴らしいと思って、好きではない人がするすべてが悪いと思いがちでしょう。
自分がその人を妬んでいるという欠点は、人にも自分自身にも隠しているつもりの妬みです。
この三つの欠点という丸太を取り除いておけば、相手を明らかに見ることができるでしょう。
そこで、自分が話す前に本人からの事実経過を聞いた方がよいでしょう。噂にならないで、相手からの直接の「生放送」を聞くのがよいのです。
それから、「なぜ?」それをしているのかと聞いて、相手の立場からも事実を見ることが大切です。そして、相手の成長と幸せを求めて、親切に怒らないで、自分が暫定的に真実だと思っていることを簡単明瞭に話すのです。
このプロセスは、大事でわかりやすいのですが、その現実の行いはかなり難しいでしょう。
「まず自分の目から丸太をとりのぞけ。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。
[ルカによる福音書 6章42節]「丸太」とは大きな過ちや欠点です。丸太の一つの部分である「おが屑」とは、同じ質の小さな過ちです。「取り除く」とは、人に注意し、アドバイスをして、プライドに傷をつけそうな真実を言うことです。
それを言う必要でなければ、言わないほうが良いでしょう。
相手が直すことが出来そうもないことであれば、それを言わなくても良いでしょう。
しかし、真実を言うべきだったら、その真実は最高の親切でしょう。
遠慮しすぎて言うべき真実を言わない人は、一見、やさしいと思われますが、本当は最も不親切な人でしょう。今更遅い時には、いっぺんに全部言いすぎるからです。
「貧すれば鈍する」と言う諺ありますが、確かに、極めて厳しい貧困で悩んでいる人間と国々は、文化を大事にする余裕がない時もあります。
しかし、非人間的な貧しさは別にして、「厳しいけれどもまあ、何とか…」という程度で 「貧」する大多数の人は、ほとんど何もない人々との分かち合いを全く考えないで、必要以上の貯金について思い悩みすぎるような気がします。
思い悩みすぎるからこそ頭と心が「鈍」するのではないでしょうか。
愛してくださる永遠の神の存在自体は、死ぬ人間の永遠性を表します。
愛する神が永遠に生きるのなら人間も永遠に存在するはずです。
G.マルセルに言わせれば、人間や動物を「愛する」という意味は「死なないで!」と願望することです。
納得できるこの考えに従って、人間を愛してくださる永遠の神は、人間にも永遠の命を願望なさるはずです。ご自分一人で生き残って、肉体的に死んだ私たちが「無」になって消えるという状態を許すのなら、結局、私たちを愛してくださらないことになる訳でしょう。
それは、「死なないで!離れないで!」と願望なさらないからです。
命と愛の源であり、命と愛そのものである神という創造者が「死なないで!」と本当に望んでおられたなら何らかの形でその望みを実現することができるはずです。
人間が「無」になることを許さないで、私たちの命を、命そのものであるご自分の側で永久に保つことができるはずです。
イエスが言ったように偽善者は自分の目にある丸太(大きな過ちや欠点)を見ようとしないで、人の目にあるおが屑(小さな過ち)を取り除こうとします。
実は、おが屑は丸太の一部分なので自分が裁いている小さな欠点は、結局、自分にある大きな欠点と同じ種類のものなのです。
しかも、自分の丸太を取り除かない人は相手の目のおが屑を見ることはできないでしょう。
明らかに見えるには視線を妨げる次に示す三つの欠点という「丸太」を取り除いた方がよいでしょう。
即ち、「丸太」となるこの三つの欠点をなるべく直して、見えるようになってから、最高の親切である真実をその人に打ち明けて、おが屑を取り除くことができるでしょう。
私たちは大抵、自分に優しくて人に厳しいのです。
「姦通した女(ヨハネ8:1)」を石で撃ち殺そうとしていた人々に向かって、イエスは「罪を犯したことのない者は、先ず石を投げなさい。」と言いましたが、皆は次々に手に持っていた石を地面にそっと置いて帰ってしまいました。
このように人の過ちや欠点を裁くことは人に「石を投げる」ことになります。
人が死ぬ時に天に入るための「試験問題」に対しては、行いでもって正しい回答をする人々でしょう。
そのことは、ずっと前から発表されているたった一つの「試験問題」なのです。
即ち、自分を必要とする人に対して、自分ができるだけの愛の行いをしたかどうかと言う簡単明瞭な「問題」です。
それに対する回答は人々の人生を評価する基準になるでしょう。
しかし、その回答の正しさを公平に判断することができるのは全てをご存知でおられる神だけでしょう。
命の限り生きようとする意欲と明るい真剣さで、家族として友達として悩んでいる人を受け入れるために輪を広げて、今を喜んで生きることができるために弱くなってきた元気の「復活」を求めればよいでしょう。
信じにくいし分かりにくい死後の復活を父である神に任せて、今を喜んで生きるのです。
ところが、今はどうしても生きる意欲と元気を心から引き出すことのできない人もいます。
その人は空がまた晴れると信じて、痛みと感じる自分の心から少し忍耐と希望を引き出して、ゆっくりと物事に運ばれて歩み続けるようにすればよいでしょう。
空は必ずまた晴れるのです。
神は天にのみならず「無限のここ」に、つまり、どこにも精神的におられるはずです。
すべてが神であるということではなく、神がどこにもおられるということでしょう。
しかし、天は「神の場」と「神のありさま」を見事に表すシンボルです。
天からは地球がありがたい雨と太陽の光をいただきます。
天からは下のすべてが見えます。
天はどこからでも眺められます。
たとえ豊かでない国の貧しい家族であっても湾から夕陽を臨み、砂漠から星を眺めたりして、無料で家庭的に楽しむことができます。
天は皆のものです。
地の持ち主はお金と力によって決められますが、地の持ち主が起こす公害によって汚されていても天は皆のものです。
天は皆を平等に受け入れます。
「天の父は、悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5;45)
天は神のように人間をはるかに超える無限の神秘です。
天の空気は神のように人間を超越しながら肺まで沁み込んで命を支えます。
神の必要性は、空気の必要性のように不在で感じられます。
空気がなくなる時にはいかに必要だったかと分かります。
ところが、人間は空気の不在で空気の必要性を強く感じけれども、神の不在では残念ながら神の必要性を感じないのです。
R・タゴールが次のように祈ります。
「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。」
何故、その痛みを感じたいかと言うと、私たちは神の不在に慣れているので、その不在の痛みを感じないで神の内にいるというありがたさを感じないで神を望まないからです。
神の不在で感じられる痛みは、神からの呼びかけなのです。
それ故「痛みを感じさせてください。」と祈るのです。
占星術の学者たちのように私たちも先立って進む星に従って行けばその星はイエスがいる場所の上に止まるでしょう。
「星」とはイエスに導く様々なしるしです。例えば、夢、悩み、喜び、感動を与える出来事、本、人の行い、人の言葉などです。しかし、大切なのは星に従う姿勢です。星に従っている自分には色々な問題が現れるでしょう。
先だって進む「星」に従いましょう。
Que regalo de Navidad quereis?. Respuesta rapida: “Salir de aqui ya!!!”. Pero, desgraciadamente, estamos hablando de regalos verosimiles, no de milagros inverosimiles.
Dios le dijo al Rey Salomon :”Pideme lo que quieras”. “Senor, mas que dinero, poder, vida larga o victorias en las guerras, quisiera sabiduria”. El Senor se alegro de la eleccion. Que pidamos este regalo.
La Sabiduria en la Biblia significa esto:
“Senor, dame paciencia para aceptar lo que no se puede cambiar. Dame valor para cambiar lo que si se puede cambiar. Dame sabiduria para comprender que se puede y que no se puede cambiar”.
Pero no esperes que te traigan este regalo. Ya lo tienes en el fondo del corazon. Sacalo de ahi cada dia.
A echarle ganas y Feliz Navidad.
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。ある貧しいやもめ(未亡人)がレプトン銀貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは誰よりも沢山入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。
[ルカ21:1-4]イエスが評価するのは、人がいくらあげることよりもあげる人にはいくら残るということです。
有り余る人々からの有難い寄付によって沢山の人が助かります。しかし、もしその方々は、あまり有り余らないほど寄付をすればもっと沢山の人が助かるでしょう。
そして、その方々自身もこのやもめのように心が洗われることができるでしょう。
パウロは、「心を合わせ、思いを一つにしなさい」と薦めました。(フィリピ2:1-5)
ところが、思いを一つにすることは難しい。
“Quot capita tot sententiae”「頭数があるほどそれだけの意見がある」というラテン語の言葉があります。
しかし、オーケストラのような一致はあります。
楽器も楽譜も音などが異なっていても同じ曲を奏でるオーケストラの一致です。
その曲は、パウロが薦める「一つの思い」になります。
「心を合わせる」ということは演奏の前に楽器を合わせることです。
このようなバラエティーの中の調和こそパウロが薦める一致なのです。
「利己心と虚栄心」は、調和を乱します。
諸悪の根源であるエゴイズムと高慢は、あらゆる一致の妨げになります。
エゴイズムな人は、何かを決めようとする時、皆の利益を求めるよりも自分の利益を狙うのです。
もう一つの妨げになる虚栄心に対して、パウロは「相手を自分よりも優れた者と考える」というコツを薦めます。
私たちは大抵、「自分の長所」対「好きでない人の欠点」を比較する傾向があるので、いつも自分が上になります。
もしも、「相手の長所」対「自分の欠点」を比較すれば相手を「優れた者」と考えるかもしれません。
また、私たちは人の価値を定めるために自分の長所を基準にするので自分がいつも「優れた者」になるわけです。
先ず、神とのコミュニケーションによって心を清め、人と話し合い、楽器と合わせてオーケストラのような調和を求めるにはよいことです。
相手の言葉をなるべく良い方に解釈しながら相手が言いたい中身を理解しようと思う姿勢が望ましい。
自分の意見を絶対的な真理にしないで、お互いの意見を尊重し協力し合いながら、真ん中に隠れている真理を探究する話し合いはバラエティーの中の一致をもたらすことでしょう。
神はソロモンに「何事でも願うがよい」と言われました。
ソロモンは、「長寿、富、敵の命よりも知恵に満ちた賢明な心を求めた。主はこの願いをお喜びになった。」(列王記上3:5-12)
聖書における「知恵」の意味は次のようです。
神を心で知ることです。
神について色々な要素を知るよりも神を深く愛するということです。
神に愛されている事実を信じて感じることです。
神とのコミュニケーション(祈り)によって、私たちに対する神の望みを知ることです。
私たちの本当の幸せという神の望みを知ると同時にその幸せにつながる道も知ることです。
深いところの自分とのコミュニケーションによって、自分自身の心が本当に望むこと、心を満たすことを知ることです。
人とのコミュニケーションによって人の心の本当の望みを知ることです。
難しい状態に関する人の意見を謙遜に聞き分けた上ではっきりと決断し、この決断をしっかり実行することです。
難しい問題に解決がない時には、解決のない難しい問題の中で自分らしく元気よく生きることです。
この知恵がすべてに勝るものなので、主がこれを選んだソロモンの価値観を見て「お喜びになった」のです。
眠くて、難しくない本の三行を何回も読んでもその内容がちっとも分からない時は、無駄な抵抗をやめて、一旦寝ておいて目を覚ますのが良いかも知れません。
心の目を覚ますためにも一旦休んでおいた方が良いでしょう。
心に一休みを与えるには、心の最も深いところに居られる神と静かに快く話すことが良いでしょう。
そうしたら、心の目を覚まして、人間、自然、芸術などを愛のまなざしで見ることができるでしょう。
しかも、人間、自然、芸術などを深く愛すれば、それを通して神を垣間見ることができるでしょう。
神と快く話して心に一休みを与えて、目を覚ますことができるように願い求めましょう。
人間は忘れがちで、大事な人の不在に慣れ易いのです。
あの時の感情を新たに引き起こすのが良いことでしょう。
あの大切な方が亡くなられた時の悲しみと寂しさを新たに感じるのが良い。
あの時に、また、あれからずっと慰めになってきている言葉をもう一度感じるのが良い。
「この方は今こそ幸せ、また会えるのです」という言葉。
あの愛しい方が私に対して抱いていた望みを今度こそ心に受け入れ、行いで実現するのが良い。
「善い人であって心が望む心を満たす喜びで幸せになりなさい」という言葉。
あの時の「よろしく」という願いを、新たに感じるのが良い。
神様に対する「この人に永遠の光と平和と幸せを与えて下さい」という「よろしく」。
その方に対する「私達を忘れないで下さい、見守って下さい」という「よろしく」。
あの時の「ありがとう」という言葉を、再び感じるのが良い。
この方を私に合わせて下さった神様に「ありがとう」。
大切にして下さったこの方に「ありがとう、ありがとう、ありがとう」という言葉。
あの時の感情を新たにして、天に生きているその方を自分の心の中でも蘇らせるのです。
「神」は、あらゆる定義を超える神秘的な存在です。しかし、聖書の神には次の特徴が現れます。
「お顔を見せてください。」とモーセが願った時、神はこのように答えました。
「私の顔を見ることはできないが、わたしの栄光を見せよう。あの岩の洞穴に入りなさい。
あなたのそばを通る時、手であなたを覆う。私が通ってから手を離す。
その時、洞穴から出てきて私の後ろと足跡を見るだろう。」と。
存在の源である神の足跡は、作られたすべてのものです。
従って、人間と自然を深く大切にする人は、それを通して神を垣間見ることができるでしょう。
「主が通ったら、洞穴から出て主の前に立ちなさい。」と言われたエリヤは、洞穴の中にじっとして主が通るのを待ち望んでいました。
「非常に激しい風が起こったがエリヤは外に出なかった。
風の後に地震が起こったが地震の中にも主はおられないとわかって出なかった。
地震の後に火が起こったが出なかった。
火の後に静かにささやく声が聞こえた。
それを聞くとエリヤは外套で顔を覆い、出てきて洞穴の入り口に立った。」
祈りという充実した沈黙で静かな息吹の囁きが聞こえるでしょう。
祈る人は、そのつぶやきの中で主に出会って主を感じることができるでしょう。
「イエスは、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登られた。イエスの顔は太陽のように輝き、服が光のように白くなった。」
これは、神がご自身を表すというテオファニアです。(ギリシア語の「テオ」は「神」、「ファニア」は「表れ」という意味です。)
「見ると、モーセとエリヤも現れた。」
要するに神はイエスが神だと表しました。神を見たい人は、イエス・キリストを見れば良いというわけです。
イエス自身は何回も「私を見る人は、神を見ることになる」と言われました。
つまり、神の足跡を深く愛して、祈りで神の囁きを心に受け入れて、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めれば、いつも神を垣間見て心で感じることができるでしょう。
なお、イエスのようにイエスと共に生きるためには「4S」を求めるのが良いことでしょう。
日本語のローマ字で「S」で始まる4つの動詞です。
イエスを「知る」「好きになる」「従う」「知らせる」という「4S」です。
しかし、モーセ、エリア、弟子たちは本当に神を見たかったのです。
それとは反対に神の身近な温かさに包まれているという事実を感じたい熱意は私たちには足りないかもしれません。それは、私たちが神から隔たり慣れ過ぎているからでしょう。
従って、R.タゴレのように何回も祈れば良いと思います。
「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。」
ヨハネの洗礼は、心の悔い改めを表す「水」の洗礼です。
その洗礼の目的は、メシア(救い主=キリスト)が一日も早く来られるためにユダヤ人を清めるということでした。
たとえ話の「放蕩息子(ルカ15)」が見せる悔い改めは、ヨハネの洗礼に似ています。
即ち、「放蕩息子」は、イエスが獲得した恵みを与える洗礼は、「キリストの洗礼」です。
その目的は、人間が神に抱きしめられるという「救い」です。
要するに、「放蕩息子」に対するお父さんの慈しみは、イエスの洗礼が与える「救い」を表します。
即ち、お父さんは、イエスが獲得した救いの恵み(Gracia(グラシア)・御父からの抱擁)は、神がくださるプレゼントです。
聖霊はこのプレゼントを感じさせてくださるのです。
「水と聖霊の洗礼」になるキリストの洗礼は、「火の洗礼」にもなります。
何故なら、「火」は、聖霊の「熱意」と「光」を表す象徴ですし、また、「水」よりも徹底的に清めるからです。
なお、「Gracia(グラシア)」とは、遠くて少し怖い存在として感じられる神が自分を包んでくださる身近な温かさのように感じさせる恵みです。
このGracia(グラシア)は、イエス・キリストの死と復活によって成し遂げられました。
つまり、イエス自身は、「ヨハネの洗礼」を受けました。
そして、私たちは、「キリストの洗礼」を受けることになります。
結論から言えば、それがはっきりとわかる人はいないでしょう。
それは、イエスが真の神であると同時に真の人間だからです。
若い時のイエスが何をご存知だったのかは誰にもわからない神秘です。
しかし、これに関しては二つの意見があります。
その一つは、イエスはご自分がメシアであり、神の子であり、神であることを小さい時からご存知でしたので「悔い改め」の洗礼によって自分を清める必要がないことをよく分かっていました。
けれども、連帯感の上で、皆と同じように洗礼を受けたという意見です。
同じく連帯感の上で、イエスは神殿のために税金を納めていました。
実は、ご自分の御父の神殿のためには税金を納める必要なかったが、皆と同じように一人の市民として税金を納めていました。
この方針で洗礼を受けたと言う意見です。
もう一つの意見もあります。
即ち、自分がメシアであり、神の子であり、神であることをまだよく知らなかったので、皆とおなじようにその洗礼を受けたかったという意見です。
イエスは、ご自分がメシアだということを次第に分かるようになっていたという推測です。
確かに、御父との極めて「深い一致」を特に祈りによってますます感じておられたのしょう。
そこで、洗礼を受けた時には(マタイ3:13)、「聖霊が鳩のようにご自分に下ったことを見て、『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者だ』と聞いて、自分がメシアだった事実が明らかになったという意見です。
悔い改めの洗礼を受けたイエスは、より強く、よりはっきりと聖霊に満たされて、聖霊に導かれるようになりました。
洗礼直後、「聖霊に導かれて」砂漠に行きました。長く祈って、精神的にたくましくなって、それからの誘惑に負けないために荒れ野に導かれたのです。
荒れ野で過ごした「四十日間」の後でも「聖霊に導かれて」人を癒しながら、貧しい人々に福音を宣べ伝えるために出掛けました。イエスは、死ぬ時までその導きに従いました。
私たちも洗礼の初心に戻れば前よりも聖霊に満たされて、祈るためにも悩んでいる人と癒し合うためにも導かれるでしょう。
軛(くびき)は、地を耕すために鍬(すき)につけて馬や牛の首にかけるカラーという辛い重荷です。
軛は、弟子が負う「先生の教え」の象徴にもなります。
ユダヤ人にとって「律法」は守りにくい掟が多くて負い辛い「軛」でした。
イエスの掟はただ一つです。
「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」
しかし、そのたったひとつの掟は極めて負い難い軛です。
一体、何故イエスの軛は負いやすくなるのでしょうか。
それに関しては、次の理由があげられます。
イエスの掟には意味があるので、その軛を負う値打ちがあります。
一方、安息日の細かい規則とか肘まで手を洗うようなルールの意味はあまりピンとこないのです。
そして、イエスは「柔和で謙遜な者」です。堅く狭い命令を機械的に守らせる方ではないのです。
広い心で柔軟性をもって人の力や精神状態などを考慮に入れます。
それにイエスは傍らにいてご自分の軛を負って苦労しながら私たちと共に歩んでいます。
これこそ、軛が負いやすくなる理由になります。
病気の苦しみ、人間関係の悩み、金銭状態などの苦しみは辛いです。
しかし、その試練を正しい方法で、自分らしく、心が望む計らいでもって乗り越える時、自信と希望は湧き出るでしょう。
次の苦しみを乗り越えるための自信と希望になります。
この大事な自信と希望という解放を感じて、「身を起こして頭を上げなさい。」
沢山の宗教の一つの共通点は、人間が死んでも生きるということです。
しかし、どういう風に生きるかに関しては、意見が分かれるのです。
イエス・キリストの教えには、死んだ人間が神になって自分ではいられなくなるということではなく、分解されて地球の自然になることでもなく、他の人間か生き物になることでもありません。
全く違った状態で、まさしく同じ人間が生きるということを教えました。
神にならないで、生きる自分が神を見て、愛しい人々を見て愛し合う。愛し合って喜ぶ。
とこしえに。
つまり、「私がいるところにあなたがたもいることになる。」ということです。
従って、亡くなられた方々は今こそ幸せ。
寂しく残された私たちは、その方々にまた会えるのです。
「絶えず祈って」いれば、神とのコミュニケーションを保つことができて、いつも喜んでいられるでしょう。
「どんなことにも感謝して」いれば、いつも喜んでいられるでしょう。
心の底に光る「聖霊の火を消さないで」いれば、いつも喜んでいられるでしょう。
嬉しい時にも、悲しい時にも「いつも喜んでいなさい。」
新しいブドウ酒とは、「私があなた方を愛したように互いに愛しなさい。」という掟です。
古い革袋とは、律法のたくさんの掟に付け加えられていた多くの伝統、習慣、律法学者たちのルールです。イエス・キリストのすすめる深く広い掟には合わない「革袋」です。
キリストは、自由の中の厳しさを望みます。
そこに問題が生じます。キリストに従うつもりの私たちには、果たして自由の中の厳しさがあるでしょうか。
それとも、自由の中の自由だけでしょうか。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。
[マタイによる福音書 9章17節]感謝は、「情け」のように「人のためならず」ものです。
感謝は、感謝される人のためになるし、跳ね返って感謝する人のためにもなるのです。
感謝する人の心も清められます。
人間にも自然にも感謝する人は、人間と自然との一致を感じることでしょう。
また、人間の心と自然の美しさをより深く感じるでしょう。
たとえば、シシャモに感謝しながらいただく人にとっては、そのシシャモより美しくなり、感謝されるシシャモもきっとどこかで嬉しくなるのではないかと思います。
人間愛と食べ物と居心地の良い家に感謝すれば、人間愛にも食べ物にも家にも恵まれていない人のことが浮かんで来て、そのような大勢の人たちのためにも分かち合いたい、祈りたい熱意が湧いてくることでしょう。
感謝されることを求めすぎないで感謝されることを忘れないようにしましょう。
イエスの足元にひれ伏して感謝した。
[ルカによる福音書 17章15節]素晴らしいことをくださる「命」、不思議な神秘である命に対して感謝しながら生きるのです。
命を与えてくださった両親に対して、その命を守ってくださったたくさんの人や自然に対して感謝しながら生きるのです。
命の源、命そのものである神に感謝して生きるのです。
つまり、食べ物に対して感謝する最良の方法は「美味しく生きる。」ということでしょう。
命に対して感謝する最も良い方法は、「美しく生きる。」ということでしょう。